新琴似兵村
新琴似兵村は、現在の札幌市北区新琴似地区に開かれた屯田兵村で、明治20(1887)年と翌年の2か年に、中国、九州地区など8県から計220戸が入植した。
札幌では琴似兵村(第1中隊)、山鼻兵村(第2中隊)に続く3番目の兵村で、明治28(1895)年まで第一大隊第3中隊を編制し、その後は屯田兵制度が廃止される明治37(1904)年まで新琴似屯田兵は後備役を務めた。
入植当時は鬱蒼とした樹林地帯だったが、比較的良い土壌に恵まれたことから農業は順調に発展した。
大東亜戦争の終結後は、一大住宅街へと変容し、札幌市の有形文化財として保存された中隊本部や、農業排水溝として屯田兵によって掘削された安春川などに、兵村の名残をとどめている。
(写真は復元保存されている新琴似屯田兵中隊本部)
目次 |
[編集] 年表
新琴似兵村史。
- 明治19(1886)年 兵屋146戸建築(8月)、琴似兵村に至る琴似新道(茨戸街道)と札幌に至る新琴似道路が完成
- 明治20(1887)年 屯田兵146戸が入植移住(5月20日)、第2陣向け兵屋74戸建築(10月)、私立小学校を開設(12月3日)
- 明治21(1888)年 岩内へ春季行軍(4月)、屯田兵第2陣74戸が入植移住(5月20日)、新琴似兵村会が発足(10月)
- 明治22(1889)年 室蘭地方で春季演習(4月)
- 明治23(1890)年 千歳村で春季演習(4月)、新琴似中隊本部襲撃事件が発生、6人を処分(10月*)、安春川開削始まる、現麻生地区に北海道製麻会社が亜麻製線工場を建設
- 明治24(1891)年 軽川地方で春季演習(3月)、予備役に編入(4月1日)、夜盗虫の大発生で農作物が全滅
- 明治25(1892)年 開拓記念碑を建立(5月20日)、稲作とエン麦の作付けを開始
- 明治26(1893)年 島松で春季演習(3月)、新琴似小学校が市立から公立となる(5月20日)
- 明治27(1894)年 新琴似屯田兵の残留が55戸約300人となる
- 明治28(1895)年 第一大隊を解散し新琴似屯田兵は後備役編入(4月1日)、日清戦争に出征、復員(6月)
- 明治29(1896)年 屯田兵司令部が廃止され新琴似屯田兵は第七師団の直轄となる
- 明治30(1897)年 新琴似農話会結成し洋式農業導入を図る、歌舞伎公演、大根を札幌に初出荷
- 明治32(1899)年 農会設立(7月30日)
- 明治34(1901)年 新琴似巡査駐在所設置(5月)
- 明治35(1902)年 第一大隊が解散(4月)、村医住宅を建設
- 明治36(1903)年 兵村が工事費を寄付し新琴似小学校を改築(11月20日)、害虫の大発生で農業被害
- 明治37(1904)年 日露戦争に81人が出征(8月)
- 明治38(1905)年 日露戦争から復員(3月3日)、新琴似郵便局が開局(4月1日)
- 明治39(1906)年 琴似村に二級町村制施行、琴似村議会選挙で国瀬源也兵村会長が当選(6月1日)、樽川通り(四番通り)の開削始まる
- 明治41(1908)年 日露戦争の忠魂碑を建立(5月20日)
- 明治42(1909)年 購販会を設立し陸軍糧秣廠にエン麦を納入
- 明治44(1911)年 新琴似兵村会を廃止し新たに新琴似屯田親交組合を結成(4月)、新琴似歌舞伎の若松館がこけら落とし(5月)
- 明治45(1912)年 乳牛の飼育開始、中隊本部を琴似購買販売産業組合の事務所として使用(7月)
- 大正 6(1917)年 新琴似屯田親交組合を解散し兵村部会を設立(3月15日)
- 大正 9(1920)年 亜麻製線工場焼失(3月)、新琴似小学校を屯田兵練兵場跡に移転落成、新川の氾濫で水稲に被害
- 大正12(1923)年 琴似村に一級町村制施行(4月1日)、新琴似に電灯新設(9月17日)、干ばつと虫害で大根に被害
- 大正13(1924)年 新琴似短歌会発足(3月)
- 大正14(1925)年 公有財産の寄付により新琴似神社が村社に昇格(6月30日)
- 昭和 元(1926)年 部落財産などで兵村公会堂(旧中隊本部)を改修、安春川改修に住民が労力奉仕
- 昭和 4(1929)年 新琴似排水土功組合設立(3月)
- 昭和 6(1931)年 新琴似兵村区の道路延長、安春川浚渫の費用を寄付(1月)
- 昭和 9(1934)年 国鉄札沼線に新琴似駅開設(11月20日)
- 昭和11(1936)年 開村50年祭、開村記念碑建立(5月20日)
- 昭和16(1941)年 新琴似部落連合会発足
- 昭和17(1942)年 琴似村に町制施行
- 昭和19(1944)年 新琴似四番通りを軍用道路として拡張
- 昭和20(1945)年 農地法の施行により26町歩の神社用地が小作人所有となる
- 昭和30(1955)年 琴似町が札幌市と合併
- 昭和31(1956)年 新琴似開基70年式典を開催(9月20日)
- 昭和32(1957)年 北海道製麻琴似製線工場閉鎖(10月31日)
- 昭和47(1972)年 札幌市が新琴似屯田兵中隊本部を復元(3月)
- 昭和49(1974)年 札幌市が新琴似屯田兵中隊本部を有形文化財に指定(4月20日)
- 昭和61(1986)年 新琴似開基百年記念式を開催(5月)
[編集] 出身地と入植
圏域 | 府県 | 明治20年 | 明治21年 | 計 |
---|---|---|---|---|
九州 | 佐賀 | 40 | 21 | 61 |
福岡 | 44 | 11 | 55 | |
熊本 | 41 | 41 | ||
大分 | 19 | 19 | ||
鹿児島 | 11 | 11 | ||
中国 | 岡山 | 10 | 5 | 15 |
島根 | 1 | 1 | ||
四国 | 徳島 | 17 | 17 | |
計 | 146 | 74 | 220 |
[編集] 出身地
新琴似屯田兵は、明治20(1887)年の146人と翌明治21(1888)年の74人の合わせて220人で、このうち187人が九州出身者だった。次いで四国の17人、中国の16人となっており、東北出身者が大半を占めた琴似兵村や山鼻兵村と対照的だ。
府県別では、佐賀県61人、福岡県55人、熊本県41人、大分県19人、徳島県17人、岡山県15人、鹿児島県11人、島根県1人となっている。
[編集] 募集・渡道
新琴似屯田兵の募集は、明治20(1887)年2月から3月にかけて寺田貞一大尉と富田貞賢曹長とが現地に出張して行った。4月には合格者の志願届が各県庁から屯田兵本部に送られた来た。
屯田兵の壮行会が各地で盛大に催され、福岡県では県議事堂が会場に充てられ、鹿児島県では渡辺千秋県令が「忠君愛国」と刻んだ餞別の手斧を1丁ずつ手渡し、激励した。
第1陣の146戸は、4月29日に神戸港を出港した御用船「日之出丸」(1、138トン)に順次乗り込み、室蘭港を経て5月19日に小樽港に着いた。船内で兵屋番号の抽選が行われた。一行は20日、鉄道で琴似駅に降り立ち、新琴似までは徒歩で移動した。
第1陣の募集が定員に満たなかったために補充された第2陣の74戸は、「兵庫丸」(1,517トン)から「田子ノ浦丸」(756トン)と乗り継いで小樽に上陸し、明治21(1888)年5月26日に新琴似に入った。
[編集] 軍務と出征
[編集] 軍務
新琴似屯田兵は、第一大隊第3中隊として明治24(1891)年4月1日の予備役編入まで3〜4年間、兵事訓練に服務した。中隊本部前の練兵場での訓練のほか、春秋2期の定期演習や行軍演習が行われた。明治22(1889)年には室蘭地方で行われた第一大隊の野外演習、明治24(1891)年3月には軽川付近で第一、第二大隊機動演習が大規模に行われ、新琴似第二中隊も参加した。明治28(1895)年4月1日、第一大隊の解散式が行われ、新琴似屯田兵すべてが後備役に編入された。
[編集] 日清戦争
明治28(1895)年3月、日清戦争に動員命令が下り出征、東京で待機中に講和が成立し6月に復員した。この年4月から新琴似屯田兵は後備役に編入された。
[編集] 日露戦争
明治37(1904)年8月、新琴似屯田兵81人が日露戦争に出征した。歩兵第25聯隊、第三軍に編入され、12月には二〇三高地での激戦に加わった。翌年3月3日復員した。
[編集] 開墾と農業
[編集] 給与地
新琴似兵村では、入植の初年度に1戸当たり4,000坪(約132a)、開拓の完了時に追給地として6,000坪(約198a)、さらに追給地の開拓も終わると増給地として5,000坪(約165a)が給与された。合計15,000坪(約4.95ha)の農耕地のほか、入植時に宅地5畝歩(約495㎡)が給与された。
新琴似兵村の全体の給与地は、329万5,742坪(約1、088ha)に上った。
[編集] 作付
新琴似兵村の入植当初の農業は、養蚕と麻の栽培が主眼とされた。明治20(1887)年に給与された種子は、麻(1戸当たり4升5号=約8.1リットル)、大麦と小麦(各1斗=約18リットル)、大豆と小豆(各5升=約9リットル)、馬鈴薯(4斗=約7.2リットル)で、ほか蚕卵用原紙4枚半だった。
養蚕は、寒冷地のために生育が悪く、新琴似兵村会は明治25(1892)年に道庁に申請し、個人での養蚕をやめた。明治23(1890)年に札幌製糖会社が設立されたのに伴い各戸1反(約10a)のビート栽培をしたが、収量が少ないうえに運搬費がかさみ、間もなく生産を中止した。染料の藍、赤土タバコ、畳用のイグサ、柳行李用のキリュウなども産業として根付かず、副業の機織りや製麺、製紙も同様だった。
入植から3年間の給付期限が切れて以降、新琴似屯田兵の生計の支えとなったのが、亜麻栽培だった。明治23(1890)年、現麻生地区に北海道製麻会社が亜麻製線工場を建設したのを機に、作付面積は拡大していった。亜麻の価格が低落した明治28(1895)年になると、エン麦の生産が盛んとなり、軍馬飼料の需要増も追い風となった。明治後期から昭和初期にかけて、新琴似兵村では、亜麻、エン麦、ビール麦が農業の中核を占めた。また、大根は都市化が顕著となり始めた昭和40年ころまで、新琴似の特産品として農家の大きな収入源となった。<
新琴似兵村における米作りは、明治25(1892)年に始まった。明治32(1899)年に北海道庁が試験用種子の配布を始めると、水草栽培はほぞ全村に広がった。しかし、凶作や洪水被害が相次ぎ、242町歩=haの増田計画に対して大正7(1918)年の作付面積は15町歩=haにまで減少した。
[編集] 潅漑・治水
安春川掘削事業
新琴似兵村の一帯は泥炭層が堆積した湿地が多かったため、屯田兵による開拓は、開墾と併せて排水事業に取り組まなければならなかった。初代中隊長の三澤毅大尉は、新琴似兵村の選定に携わった時点から排水溝構想を屯田兵本部に提案しており、明治19(1886)年には現在の新川(全長約13km)を完成させた。第3代中隊長の安東貞一郎大尉は、三澤の計画を受け継ぎ、最初の入植から3年後の明治23(1890)年7月、排水溝の開削に着手しその年のうちに完成させた。全長5.5kmの排水溝は、発寒川に注ぎ込み、安東大尉と工事を請け負った春山という人物の姓から「安春川」と名付けられた。
しかし、安春川は計画通りの排水効果が上がらず、大正、昭和と改修工事が繰り返された。新琴似地区の都市化が進み農業が衰退すると、札幌市は平成3(1991)年、「ふるさとの川モデル事業」として安春川を住民が憩うウオーターフロントとして整備した。現在は、下水道の処理水が流されている。
[編集] 公有財産と自治活動
[編集] 公有財産
新琴似兵村に給与された公有財産地は、発寒川上流官林、月寒村字厚別、上手稲村、下手稲村、発寒村、新琴似村(現・新川地区)などで計324万7,937坪(約1,072ha)に上った。
新琴似兵村では明治32(1899)年、公有財産取扱委員会が発足し、屯田兵の中隊編制が完了した明治42(1989)年には新琴似兵村会が誕生した。「新琴似兵村会記録」によると、この時期に兵村会が公有地を借り受けて小作させるなどして運用し、基金を増大させた。明治44(1911)年に新琴似兵村会を解散し、翌年発足した新琴似屯田親交会が、部有財産の運用に当たった。さらに大正6(1917)年に新たに結成された新琴似兵村部落会が、部有財産を借り入れ、運用益などで部落の公共事業を援助した。
新琴似兵村部落会は昭和16(1941)年、戦時体制に沿って部落連合会の傘下に編入されたのを機に、残されていた部有地約128町歩=haの一部を新琴似神社に寄付し、残りの売却代金を部落の道路改良資金などに充当し、すべての部有財産がなくなった。
[編集] 自治とまちの変遷
新琴似兵村では明治21(1888)年に新琴似兵村会が組織されて以来、協同共助の原則に基づいて公有財産の管理をはじめ活発な自治活動を展開した。兵村会は4区から各4名の計16名の議員で構成され、合議によって小学校の維持、道路補修、河川整備、農業改良などの事業を進めた。離農などにより入植時の約3分の1の88戸まで減少した明治44(1911)年の解散までの間に、兵村内最大の幹線・四番通りを樽川村(現・石狩市)まで延伸開削するなど、現在の新琴似のまちの基盤を築いた。
自治活動の中核は、新琴似屯田親交組合、新琴似兵村部落会に引き継がれ、大正から昭和初期にかけて、教育、土木、医療、防災、産業振興、青年会育成など広範な公益事業を行った。これらの自治活動は、『新琴似兵村会記録』(明治22年〜昭和4年)や『新琴似兵村部落会記録』(明治40年〜昭和10年)に詳細に記録されている。
[編集] 主な人物
[編集] 歴代の中隊長
屯田兵第一大隊第三中隊の中隊長は、次の5代にわたった。
[編集] 屯田兵・中隊幹部
[編集] その他
[編集] 屯田兵名簿
[編集] 出来事・エピソード
[編集] 証言録
[編集] 伝統文化・芸能
[編集] 史跡・博物館
[編集] 史料・論文等
- 『新琴似兵村会記録』 (北海道大学北方資料室所蔵)
- 『新琴似兵村部落会会議録』 (北海道大学北方資料室所蔵)
- 『新琴似兵村史』 (昭和11年)
- 『新琴似七十年史』 (昭和32年)
- 『新琴似百年史』 (昭和60年)
- 『ふるさと新琴似 忘れ残りの記』 (小林博明・日本興業)
- 『消えた樹海 新琴似兵村から年への一世紀」 (小林博明・日本興業)
- 『兵村』 (後藤良二・日本興業) 新琴似屯田兵三世の著者が、代々受け継がれた伝承と史実をベースに、開拓者一家の暮らしを描いた屯田兵物語。
- 「屯田兵村の精神風土を探る」 (梶田博昭・『屯田』第51号)
[編集] 子孫会・顕彰団体等