兵屋
屯田兵屋は、屯田兵が入地した際に各戸に給与された家屋。
標準とされた構造は、木造平屋、板張りに柾葺きで、面積は17坪5合(約58平方メートル)。
間取りは、土間に、炉を囲んだ6畳の板の間、6畳と4畳半の畳の間で構成され、流し、便所、押入が配置されていた。小屋組で天井はなく、屋根に煙出しが設けられていた。
1878(明治11)年に江別兵村に建てられた10戸の兵屋は暖炉付きの西洋式、1880(明治13)年に篠津地区に建てられた20戸は丸太組のロシア・コサック式だったが、多額の費用を要したため、その後は採用されなかった。
(写真は琴似兵村の屯田兵屋、平面図は江部乙兵村モデル)
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[編集] 構造と配置
[編集] 間取り・構造
屯田兵屋の構造は、明治6(1873)年11月の屯田兵制度創設案では5戸1棟の長屋を計画していた。実際には、木造平屋の一戸建てで、間口5間(約9m)奥行き3.5間(約6.3m)の面積17坪5合(約58平方メートル)が標準とされ、初期においては壁や間取りに試行錯誤が繰り返され、地域や建築時期によって仕様に多少の違いがあった。
明治8(1875)年に最初の屯田兵が入った琴似兵村の場合は、村橋久成による当初の設計案では厩が付き、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる炉が切られていたが、実際には予算不足などを背景に一部土壁で純日本式の囲炉裏付きの兵屋だった。窓は隙間のある無双窓で煙出しからも雪が吹き込むなど寒冷地対策はほとんど施されなかったため、温暖な地域出身の屯田兵らには不評だったとされる。琴似兵村の兵屋は、「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)、「薄紙様ノ家屋」(ホーレス・ケプロン)などと評価されたが、公的な支援のない一般入植者の多くが雨露をしのいだ掘っ立て小屋に比べると条件はまだ恵まれていた。
寒冷地仕様の兵屋としては、ケプロンの進言に基づいて明治11(1878)年、江別兵村にウイリアム・スミス・クラークの設計による米国式耐寒構造の兵屋10戸が建設された。さらに翌年、篠津地区にはロシアのコサック式と呼ばれる丸太組みの兵屋20戸が建設された。ガラス窓で暖炉も採用されたが、米国式は琴似に比べて約2倍、コサック式は約4倍もの建築費がかかり、結局、これ以降の兵屋は、板壁・柾葺き・囲炉裏が標準とされた。
間取りについては、屯田兵司令部が作成した『屯田兵移住者心得』(明治27年)添付の「兵屋乃図」によると、土間に、炉を囲んだ6畳の板の間、6畳と4畳半の畳の間で構成され、流しが付属している。また、『北海道屯田兵制度』(大正3年・上原轍三郎著)掲載の図面では、板の間と流しをつなぐ「踏み板」や便所、押入、棚板の記載があり、棚板は銃の架台として使用されていたと見られる。
現存あるいは復元保存されている兵屋は、土間と板の間の仕様に違いが見られ、流し回りまで土間が広がっているものや、板の間が流し回りまでつながっているものもある。6畳間が8畳間となっている琴似兵屋を含めて、建設当時のものが改変された可能性もある。
騎兵隊が配置された美唄兵村の兵屋は、母屋の土間側に差し掛け屋根の厩舎が付属する特異な形態だった。厩舎の広さは、間口1間(約1.8m)奥行き2間(約3.6m)の2坪(約6.6平方m)で一頭用だった。(右の立面図参照)
[編集] 洋式小屋組の採用
明治7(1874)年に建造された琴似兵屋の小屋組(屋根を支えるための骨組み)は、日本の伝統的な小屋組と異なる、トラス構造と呼ばれる洋式小屋組が採用されている。軽量な部材でも強度に優れ、柱のない大空間を確保できることから、日本でも明治以降急速に普及した方式で、その先駆けが世界文化遺産の富岡製糸場(明治5年完成)で、ほぼ同じ時期に住宅に採用された貴重な文化遺産といえる。
小屋組を子細に見ると、水平に渡された太い梁の中央から一本の柱(真束・英名キングポスト)が垂直に立ち上がり、両脇の斜めに延びた二本の柱とともに、しっかりと屋根を支えている。製糸場とは接合部分に微妙な違いがあり、「継ぎ」「組み」などの仕口に「洋魂和才」の跡が感じられる。琴似兵屋の設計段階では、カッヘル(ストーブ)や屋内白土壁の採用など洋風建築を目指したものの、資金上の制約から断念していった経緯があり、トラス構造は、唯一残った洋風指向の残骸ともいえる。
兵屋建設費はその後も切り詰め傾向が続き、技術力に劣る囚人労働を頼ったこともあり、洋式小屋組は琴似、山鼻兵村だけだった。「五寸角材」だった真束は、後期兵村では「三寸五分の皮剥ぎ丸太」に置き換えられた。現在も復元保存されている秩父別兵村の兵屋を見ると、曲がりくねった梁の上で、いかにも頼りなげな三本の束柱が、屋根を支えている。
参照:下段・兵屋#保存されている屯田兵屋の仕様比較表
[編集] 配置
屯田兵屋の配置については、屯田兵用地の区画割りの方法によって、1戸当たりの用地を狭く取って兵屋を近接して配置する「密居制」と、比較的広い用地に距離を置いて兵屋を配する「粗居制」の二種がある。『屯田兵移住者心得』(明治27年)添付の「兵屋乃図」に示された1戸当たりの兵屋用地は、間口11間(約20m)奥行き12.5間(約23m)で周囲に幅1尺5寸(約45cm)深さ1尺(約30cm)の溝をめぐらせ、用地のほぼ中央に兵屋を配置している。入り口には「三門柱」と呼ばれる門柱を立て、門前の道路のほか、両隣家への通路と裏手から延びる作道を通してある。
兵屋を道路を挟んで両側に配置する場合には、正面の入り口が道路に面するように、裏表対称に間取りした「裏返し型」と一般に呼ばれる構造が取られた。
[編集] 建設
屯田兵は、明治15(1882)年の開拓使廃止に伴い陸軍省へ移管されるが、兵屋建設には多くの費用が必要なため、どの時期においても財政難がつきまとった。その解決策として、前期においては囚人労働が利用され、囚人の過酷な使役が制限されるようになった後期においては仕様の粗悪化という現象も見られた(『屯田兵村』)。
参照:下段・兵屋#エピソード
[編集] 給与
屯田兵に対しては、1人について居宅として兵屋1戸が給与された。ただし、独身者をも志願対象とした初期においては、家族持ちは1戸、独身者は4人で1戸とされた(屯田憲兵例則・明治7年10月30日)。各兵屋には、畳と建具はじめ家具(鍋、桶、荷桶、椀)が付属し、夜具(15才以上1人当たり4布と蒲団各1枚、7才以上15才までは1人当たり4布蒲団1枚)とともに給与された。
屯田兵に対する兵屋の割り当ては、移住の際の輸送船の船中または上陸後に、兵屋番号が書かれたくじ引きで決められた。ただし、実際には同郷の者や近親者ができるだけ近くに居住したいという思いから、抽選通りでは必ずしもなかったという話も伝えられている。
給与された兵屋は、原則として増改築が禁じられ、移住後3年間については災害などで破損亡失した場合に別に給与された。
[編集] 関連法令
- 屯田憲兵例則(明治7年10月30日・開甲36)
- 居宅 一戸 但家族アル者ハ一戸ヲ給与シ独身ノ者ハ一戸四人トス給与年限中妻ヲ娶ル者ハ別戸ヲ給シ其妻子ノ給助ハ夫ノ満期マテトス
- 屯田兵条例(明治18年5月5日・太18達)
- 第2条 屯田兵ノ建制ハ概ネ歩兵隊ニ基クト雖モ兵ヲ農ニ寓スルノ主旨ニ依リ平常ハ給与ノ家屋ニ居住シ開墾耕稼ノ事ニ従ハシメ有事ノ日ニ方リテ戦列隊ニ編成シ敵衝ニ当ラシム
- 屯田兵移住給与規則(明治23年5月10日・勅76)
- 第3条 屯田兵移住シタルトキハ家宅家具夜具農具種物扶助米及塩菜料ヲ支給ス
- 屯田兵条例(明治23年8月29日・勅181)
- 第2条 屯田兵ハ兵農相兼ヌルノ制トス平常ハ給与ノ兵屋ニ居住シ軍事上ノ訓練及開墾耕稼ニ従事セシム
- 改正・屯田兵移住給与規則(明治25年10月11日・勅89)
- 第三条第一項中「家宅」ノ下「井戸属具共」ノ五字及左ノ但書ヲ加フ
- 屯田兵志願者心得(明治25年10月20日・屯田兵司令部)
- 第六(家具夜具) 家屋ハ一戸ニ付一棟ヲ賜ハル而シテ其広サハ十七坪五合ニシテ之ニ畳建具及家具(鍋、桶、荷桶、椀)夜具(十五才以上一人ニ付四布及蒲団各一枚七才以上十五才迄一人ニ付四布蒲団一枚)之ニ添フ
- 但井戸及属具ハ実際ノ景況ニ由リ二戸以上ニ一箇ヲ給スルコトヲ得
- 改正・屯田兵移住給与規則(明治27年7月11日・勅96)
- 第5条 屯田兵移住シタルトキハ兵屋、井戸属具共家具、夜具、農具、種物、扶助米、塩菜料ヲ給与ス但井戸及属具ハ実際ノ景況ニ由リ二戸以上ニ一箇ヲ給スルコトヲ得
- 移住後満三箇年間ニ於テ変災ノ為メ前項ノ兵屋、家具、夜具及農具ヲ亡失若クハ破損シ其ノ用ニ堪ヘサルニ至リタルトキハ更ニ之ヲ給与スルコトヲ得
- 屯田兵移住者心得(明治27年7月31日・屯田司令部)
- 二十六 上陸ノ上ハ各戸主ヲ纏メ兵屋ノ番号籤ヲ抽カシム此籤ハ自己ノ家屋ヲ証スルモノナルヲ以テ移住地ヘ着迄ハ紛失等ナキ様注意スル事肝要ナリ
- 三十八 人員取調終レハ係員ノ指図ニ依リ自己ノ籤番号ニ照シ合セ其兵屋ニ入ルヘキコト
- 屯田兵条例廃止(明治37年9月8日・勅202)
- 屯田兵条例、明治二十七年勅令第九十五号、屯田兵移住給与規則及屯田兵給与令ハ之ヲ廃止ス
[編集] 保存されている屯田兵屋
[編集] 北海道指定文化財
[編集] 市町村指定文化財
[編集] 国指定史跡
- 琴似屯田兵村兵屋跡(札幌市)
[編集] その他
[編集] 記録写真に見る屯田兵屋
- 江別兵村篠津地区に明治12〜14年ころに丸太組で建てられたロシア式兵屋
[編集] エピソード
[編集] 永山兵村建設で民間業者がバンザイ
旭川のまちづくりの原点ともなった永山兵村の建設は、明治23(1890)年に始まった。第二中隊の兵屋200戸は樺戸と空知の集治監が受け持ち、第一中隊の200戸の建設は札幌の北海商会が請け負うことになった。ところが、長雨が続いたために建設用の木材や食糧の搬入が困難になってしまった。建設作業員は、神居の集治監出張所で作った馬鈴薯でなんとか食をつないだが、北海商会は資金難に陥り、100戸を集治監に、残り100戸を札幌の業者が代わって請け負うことになった。そんな事態を皮肉った戯れ歌が巷間に流れた。
- 北海商会 どうしようかい
- 朝かい 昼かい 晩もかい (かいは粥を指す)
- ごしょ芋なんぞを 食うのかい
- それでも職人 稼ぐのかい
[編集] 屯田兵家族らの証言
- 「天井が張ってなかったので、屋根の裏が直に見えていました。冬になると柾釘の先に霜が着いて、屋根裏が真っ白になったなぁ」(湧別・三浦清助、上湧別町史)
- 「炉で長い薪を焚いたもんで、屋根に煙出しが付いていたんですが、とても煙たくていつも眼がクシャクシャしていたなぁ」(湧別・西潟かぎ、上湧別町史)
- 「家族が多くて、何とも与えられた兵屋では不自由だが、建て増しは許可されぬ、そこで三間半の物置を建て増しして、そのうち六畳一間を物置とし、他を部屋として使ったが、兵屋の通路は物置に出入りするだけというので六尺とし、部屋も窓がなくて暗く、事情を知らぬ後々の人からは、下手な設計だと批評された」(永山・川村幸吉、永山町史)
- 「屯田の家は八畳と四畳半とね、あとはまあ、百姓をするのですから板場、板の間は広いんです、灯りはランプです。暗かった。暗くて、危なくってねぇ」(輪西・岩城シゲ、室蘭屯田兵)
- 「五日がかりで永山へ入ったが、来て見て驚いた。兵屋の中に蕗や笹などがいっぱいで、まず度肝を抜かれた。また、雪が五尺六尺と積もるのにも驚いてしまった。雪中の伐採木のために兵屋が壊れたり、死傷した者もあった」(永山将校・野万寿、北海タイムス)
- 「屯田兵の家はみんな同じで、大きな門柱が二本あり、それに氏名と階級が記されていました。それを覚えていないと、どこの家にいるのか分からないの。木ばっかりで、隣の家も見えないんだから。それから雪がひどくて、六尺余りある高い門柱の上に上がって遊んだのを覚えています」(高志内・文屋シウ、美唄町史)
- 「屯田兵屋がはじめて焼けた。昼間だったが、消防隊がなかったため、みんなが集まり学校にあった手押しポンプで消火に当たったが、全焼した」(美唄・山本秀一、美唄町史)
- 「はじめて家に入ってみると、土間に三尺ある切り株が二つもあった。畳はカヤだった」(一已・原タマ、深川市史)
- 「家は粗末で焚き火に向かった前だけが熱かったが、寒くて煙たくて、吹雪の時は雪が入った。大きな囲炉裏に薪をいっぱいくべて寝たが、火事にはならなかった。朝起きてみたら、蒲団の上に雪が積もっていたこともあった」(納内・北出長一、深川市史)
- 「四枚ガラスの窓が一つあって、壁は板壁だった」(納内・南山ムメヨ、深川市史)
- 「明治二十六年、積雪多し。二十六年兵の召募者の入隊する為、新規に建築せられたる。兵屋の九十一番の保存を命ぜられ、降雪の都度除雪を為す事となりしが、此の年は前記の如く、降雪量多くして、下ろしたる雪の積重が軒にまで達するため、狐狸は其の屋根上に従横に馳駆すると云う、内地にては想像も及ばぬ状況に驚きたり」 (美唄・志賀峰吉、波上浮沈記)
[編集] 参考文献
- 『北海道屯田兵制度』(大正3年・上原轍三郎)
- 北海道文化財シリーズ10集『屯田兵村』(昭和43年・北海道教育委員会)
- 『滝川 江部乙 屯田兵屋』(昭和56年・滝川市)
- 『琴似屯田兵村兵屋調査報告書』(昭和47年・財団法人観光資源保護財団=日本ナショナル・トラスト)
- 『新琴似百年史』(昭和61年)
- 『美唄の屯田兵』(昭和54年・美唄市)
- 『北海道住宅史話(上下)』(平成6年・遠藤明久)
[編集] 保存されている屯田兵屋の仕様比較表
保存公開されている屯田兵屋は、復元しようとした時点で既に改築されていたケースも多く、建築当時の設計上の違いだけでなく、改変による仕様・構造の違いもあると見られるが、「木造切り妻平屋、桁行(間口)5間に梁間(奥行き)3間半」という基本構造はすべて一致している。
比較的顕著な相違が認められるのは、下表にあるように小屋組、壁体、炉、煙出し、勝手、厠などの造作であり、外観については屋根に対して「平行型」と「直角型」に二分される煙出しの設置方向や、半坪の「軒出し型」と建坪内に収める「本家込み型」がある厠の例が挙げられる。
屋内に関しては、勝手(台所)周りを土間とするものと板の間とするものに大別され、「土間型」では炉を切った板の間から流しまでの間に細い踏み板を渡すものも見られる。「板の間型」の流しは、座った姿勢で炊事をする「座流し」方式が一般的なのに対して、「土間型」では立ったままの「立ち流し」が設置されている。炉の切り方・大きさも、兵村によって微妙な違いが認められる。
(仕様比較表は、『滝川 江部乙 屯田兵屋』を参考に作成した)
兵村 | 琴似 | 野幌 | 太田 | 滝川 | 永山 | 美唄 | 当麻 | 一已 | 湧別 | 野付牛 | 士別 | 剣淵 |
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小屋組 | 洋式・キングポスト・トラス式 | 和式二重梁 | 和式一重梁 | 和式二重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 | 和式一重梁 |
外壁 | 下見板張/横組/押縁打ち | 下見板張/横組/押縁打ち | 下見板張/横組一部堅板/押縁打ち | 下見板張/横組/押縁打ち | 下見板張/横組/押縁打ち・一部竪張 | 下見板張/横組/押縁打ち・一部竪張 | 下見板張/横組/押縁打ち・一部竪張 | 下見板張/横組/押縁打ち・一部竪張 | 下見板張/横組/押縁打ち | 下見板張/横組/押縁打ち | 下見板張/横組/押縁打ち | 下見板張/横組/押縁打ち |
内壁 | 土壁/真壁/中壁 | 土壁/真壁 | 竪板張/内外二重板 | 竪板張/二重壁 | 一部竪板張/二重 | 一部竪板張/二重 | 一部竪板張 | 一部竪板張/押縁打ち | 一部竪板張 | 一部竪板張 | 一部竪板張 | 一部竪板張 |
炉 | 框部分内に独立(3尺×4.5尺) | 框部分と隣接(3尺×6尺) | 框部分と隣接(3尺×5尺) | 框部分と隣接(3尺×5尺) | 框部分内に独立(3尺×5尺) | 框部分なし(3尺×6尺) | 框部分なし(3尺×6尺) | 框部分なし(3尺×6尺) | 框部分なし(3尺×6尺) | 框部分なし(3尺×6尺) | 框部分なし(3尺×6尺) | 框部分なし(3尺×6尺) |
煙出し | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根と平行 | 屋根に直角 | 屋根に直角 | 屋根に直角 | 屋根に直角 |
小屋仕切 | 板の間8畳と4畳半境2枚 | 4畳半のみ2面 | なし | 土間側妻より3間 | 6畳と4畳半境・折型 | 6畳と4畳半境・折型 | 勝手4畳半と板の間6畳境・折型 | 勝手4畳半と板の間6畳境・折型 | 勝手4畳半と板の間6畳境・折型 | なし | 勝手4畳半と板の間4畳半境・折型 | 勝手4畳半と板の間6畳境・折型 |
勝手 | 板の間続き/座流し | 板の間続き/立流し | 板の間続き/立流し | 板の間続き・踏み板/立流し | 土間/立流し | 土間/立流し | 土間・渡り歩み板/立流し | 土間・渡り歩み板/立流し | 土間・渡り歩み板/立流し | 土間・渡り歩み板/立流し | 土間・渡り歩み板/立流し | 土間・渡り歩み板/立流し |
厠 | 本家込み | 本家込み | 本家込み | 本家込み | 本家込み | 本家込み | なし | 軒出し5合 | 軒出し5合 | 軒出し5合 | 軒出し5合 | 軒出し5合 |
所在地 | 札幌市西区琴似一条7丁目/140番 佐藤喜一郎 | 江別市元野幌563/186番 湯川千代吉 | 厚岸町太田二ノ通り6/119番 松本米吉 | 滝川市森町3丁目8-20/7番 市川好三郎 | 旭川市永山4区1条1丁目/332番 石山伝次郎 | 美唄市西4条南2丁目/93番 長谷川金五郎 | 当麻町市街6区/208番 小林新五郎 | 深川市一已町一已2110/103番 藤原嘉六 | 上湧別町字屯田市街地98-2/153番 鷲見藤吉 | 北見市常盤町3丁目1-67/397 西政吉・238番 橘丑之助 | 士別市東8条北1丁目/67番 川津萬次郎 | 剣淵町第3区/141番 木下政太郎 |
特記事項 | 北海道指定文化財・移設復元 | 移設復元 | 北海道指定文化財・移設復元 | 滝川市指定文化財・移設復元 | 旭川市指定文化財・移設復元 | 北海道指定文化財・移設復元 | 移設復元 | 深川市指定文化財・移設復元 | 移設復元 | 北見市指定文化財・移設復元 | 士別市指定文化財・移設復元 | 剣淵町指定文化財・移設復元
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