井後麒三郎
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[編集] プロフィール
- 井後 麒三郎(明治21年5月入地 福岡県出身 兵屋番号176番)
[編集] 出典元
- 『新琴似百年史』(1986年・昭和61年)<『新琴似兵村史』(1936年・昭和11年)
[編集] 要旨
- 軍人として身を立てたいと志願した
- 母の手を引いて入地、道路とは名ばかり密林に驚いた
- 家にはなんでもそろっていた
- 伍長から格下げ我慢、以降順調に進級した
- 人心は殺伐、慄悍な人が多かった
[編集] 証言内容
- 私は徳島藩であるが、早く父に別れ弱冠二十歳の時、一人の母を抱えて(当時五十歳ミネ子刀自)自分の将来を考えた時、一家の責任の重大さを痛感する一面、前途に一抹の暗翳を認めて、内心若干の悲観もしていた。時たまたま明治二十一年の春、屯田兵募集のことを聞き、思へらく軍人として身を立てるが何より捷径だ(当時は卒より将校に上る途が開かれてあった)そう思って母とも相談の上これに応募をし、一切の手続きも無事に済まし、その年の五月初旬御用船兵庫丸に乗船し渡道した。
- 小樽から貨物列車に乗せられて琴似駅に着いて見ると、旧琴似村屯田の幹部と古兵の村山正隆氏あたりが出迎えてくれた。私は飛白の着物に、朴歯の高下駄を履き、母の手を引いて案内者の後について行くと、道路とは名ばかりで密林の中を歩かせられるにはちょっと度胆を抜かれた。と、どこかで閑古鳥が啼いている。オヤッ!と飛び上がらんばかりに驚いた。まさかにかくまで山の中だとは夢にも想ってなかったから、それに困った事には悪路を辿る母の身の上が気懸かりでならない、と幸いにも老人は馬車に乗せて……ということを聴いてやっとホッとした。
- 家に入って見ると二度びっくり、何から何まで揃っているのだ、で結局夜具など持参したものも荷を解きもせず、官給品をそのまま使用した。ただ困ったことには、ランプがないので約一ヵ月間というものは、一抱えもある木を伐って来ては、に焚き、その明かりで暮らした。それから漸くカンテラを手にした。
- 徳島から来たほとんどは百姓の経験がなく、しかも物質的方面には至極恬淡で、北門鎖鑰の大任を負う大下の干城だとばかり、胸には燃ゆるが如き青雲の望みを抱き、気骨稜々ひたすら尚武一点張りといった風だった。私は最初から分隊長を拝命していた古兵との関係上、伍長から上等兵に下げられ、一時我慢させられたのには内心面白くなかったことがある。しかし軍律厳しいこの社会には不平など到底通るものでないことを知って泣き寝入りの外なかったが、そんな訳でもあったろうか、以後の進級は普通よりズーット早かった。
- 当時の人心は概して殺伐にして慄悍な人達が多かった。しかしそれであったればこそ、今思ってきたのだ。誠に既往を追懐する時、うたた感慨の深きものがある。