新琴似歌舞伎
新琴似歌舞伎は、明治30(1897)年から大正5(1916)年までの時期に、新琴似兵村の若者らで結成した素人劇団によって新琴似神社の境内などで上演された。鳥取県から札幌に移住した田中松次郎が、青年団仲間に呼びかけて始めたとされる。厳しい開拓生活に追われていた屯田兵や家族らにとって、数少ない娯楽として喜ばれた。
子ども時代から歌舞伎に強い興味を抱いていた田中松次郎は、明治40(1907)年5月、私財を投じて現在の新琴似7条1丁目付近に、観客310人を収容できる劇場「若松館」を開設した。観覧は無料で、観客が舞台に向けて投げる「花(投げ銭)」で運営費が賄われた。しかし、ほぼ同じ時期に札幌の中心街の狸小路に「遊楽館」が開設され、映画人気が高まるとともに、客足は遠のき、閉館に追い込まれた。
新琴似歌舞伎は兵村の歴史からすっかり消え去ったかに見えたが、平成5(1993)年7月、新琴似の地域住民によって「新琴似歌舞伎伝承会」が発足し、地域の伝統芸能として復活した。「青砥稿花紅彩画(白波五人男)」や「仮名手本忠臣蔵」などの演目が、地元住民や中学生らによって演じられている。
[編集] 若松館
田中松次郎が私費を投じて開館した「若松館」は、長屋風の小屋ながら、幅5間半(約9.9m)奥行き3間(約5.4m)の舞台に花道まで着いた本格的なものだった。観客席は幅5間(約9m)奥行き7間(約12.6m)の土間で、風紀維持のための警察官席も設けられた。こけら落としには、全道巡業をしていた手稲村在住の歌舞伎役者・中村亀之助一座を招いて上演した。松次郎は、芸名を「松楽」として松楽一座を名乗り、「太功記十段目」や「勧進帳」「神霊矢口渡」などを得意演目とした。農村芸能の枠を越えた新琴似歌舞伎は、当時人気の高かった壮士芝居や新派劇、浪花節などに引けを取らないほど爆発的な人気を呼んだ。
若松館の跡地には、新琴似歌舞伎の由来を記した歴史案内板が立てられている。