屯田兵の服装
屯田兵の服装は、改正を重ねた陸軍服制に準じて様式・形状・品質にいくつかの変遷が見られるが、他の兵種に比べて特異な存在であったことから、屯田兵独自のスタイルを有した。即ち、創設期においては左袖に開拓使の旗章にも使われた星形の「北辰章」を付け、中期においては緋色の側章(ライン)が入った「藍霜降」の軍袴(ズボン)が屯田兵のシンボルだった。しかし、第七師団の所属となった後期においては、陸軍服制に沿って一般の歩兵と同じ軍装となった。
写真は、紺絨の軍衣に藍霜降の軍袴を着用した琴似屯田兵(『琴似屯田百年史』より)
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[編集] 軍服の変遷
[編集] 明治期の陸軍服制の流れ
維新の際の官軍の服装は諸藩によってバラバラであったが、明治2(1868)年、奥羽戦からの凱旋兵に下賜された黒絨(註)のフランス式軍服と、御親兵に給与された紺色大絨の帽衣袴と靴が、近代日本における軍服の起源となった。
註:絨(じゅう)は一般に羅紗(らしゃ)とも呼ばれた厚手の毛織物
明治3(1870)年には「海軍服制」「陸軍徽章」布告により、海軍はイギリス式、陸軍はフランス式の服制が定められた。さらに明治6(1873)年布告の「陸軍武官服制」と明治8(1875)年の改正によって将校から兵卒までの服制が整えられた。
明治19(1886)年の服制改正では、フランス式からドイツ(プロシア)式に変更され、軍衣については、将校らは「濃紺絨」、下副官以下は「紺絨」、軍袴は兵種によって色別区分された。
明治37(1904)年の日露戦争を機に、「茶褐色(カーキ色)」の戦時服が採用され、明治39(1906)年の「陸軍軍服服制」(勅令第71号)によって以降は、「茶褐色」が軍装の標準色と定められた。
[編集] 最初の制服には「北辰章」
創設当初の屯田兵の制服は、明治8(1875)年5月5日付で開拓使長官・黒田清隆が太政大臣・三条実美に提出した「屯田兵服制の儀伺」に基づいて、鎮台兵に準じることとなった(5月18日太政官布達)。したがって、正衣は紺大絨ホック掛け、正袴は紺大絨で黄色の側章、正帽は黒塗り革製、略服は紺大絨でホック掛け、丈がベルトライン近くまでの短いものだったことになる(略装は明治7年制定、明治8年改正で略装は小倉織となる)。ただし、開拓使の章号として左袖の肩の縫い目下4寸(約12cm)の位置に、径1寸5分(約4.5cm)の五稜星を型取った「北辰章」(北辰は北極星を指す)を付けることとし、これが鎮台兵と識別するうえで目印となった。「屯田兵服制の儀伺」に添付された図案によると、詰め襟、筒型の長袖で、前身ごろは左前、腰の部分が切り替え様となっている。両袖口には階級に応じて金線(大中少佐)、銀線(大中少尉)、緋線(曹長以下)が入るとの説明が添えられている(右図参照)。
最初の屯田兵が琴似兵村に入地したのは、「屯田兵服制の儀伺」提出の直後(5月17日)であったことから、屯田兵が服制にしたがった軍服を着用したのは、しばらく後のことと思われる。入植当時の写真には、和服に袴、白い兵児帯姿や野良着など各自が持ち込んだ衣服をめいめいに着用して整列したものが残されている。また、琴似屯田兵・山田貞介の長男・山田勝伴の記録によると、琴似兵村では寒冷地仕様の装備の試行錯誤が繰り返され、綿糸を厚く織った紋羽(もんぱ)仕立ての冬服を着用したという(『開拓使最初の屯田兵』)。
[編集] 西南戦争で際立った屯田兵
明治10(1877)年の西南戦争に動員された琴似、山鼻の両屯田兵の出征記念写真には3種の軍服が認められる。上衣はともに詰め襟(立襟)で前を中央で合わせてホックで留める方式だが、丈についてはベルト付近までの短い明治7年制定の鎮台兵略服に類似したタイプ(写真右)と、「黒田案」に近い腰まで包む長いタイプ(写真左)がある。さらに後者の写真の3人のうち中央の屯田兵の上衣には剣型の胸飾りがある点が、明治6年制定の鎮台兵の正衣に類似している。
軍帽はいずれも帽章に日章を用い、左の写真の中央の屯田兵の手にした軍帽には明治3(1870)年から採用された五芒星(ごぼうせい・註1)が頭頂部に縫い込まれている。
屯田兵を含む政府軍の歩兵の軍衣袴は、直近の明治8年改正の服制に沿えば紺色の大絨(略衣は小倉織)が標準となるが、実際には明治6、7年の服制のものや所属部隊の違いによるものなど、種類の異なる軍服が混用されていたという(笠間良彦『図鑑 日本の軍装』)。
写真の屯田兵は靴履きだが、琴似屯田兵は軍事行動において靴に勝るとの考えから草鞋(わらじ、冬はツマゴ)を標準的な装備とし、西南戦争の際には「白脚絆鞋で、師団兵(註2)より異様な服装の屯田兵であると、軽侮の眼を以て迎えられた」というエピソードが残っている(山田勝伴『開拓使最初の屯田兵』、『琴似屯田百年史』)。
註1:軍帽の五芒星には「魔除け」の意味が込められ、歩兵の場合は明治19(1886)年改正まで使用され、将校と近衛兵では明治期を通して使用された。
註2:鎮台を廃止し師団が設置されたのは明治21(1888)年なので、「師団兵」は屯田兵を除いて鎮台兵を主力とした政府軍全体を指すと思われる。
写真はいずれも西南戦争出征の記念写真とされる山鼻屯田兵(山鼻記念館資料室提供)
[編集] 藍色霜降に緋色の側章
明治19(1886)年に陸軍服制が大改正され、ドイツ(プロシア)式の採用によって軍衣の丈(ベルトラインの下4寸)がやや長めとなる(夏衣は下2寸と短め)など細かな変更と併せて、兵種ごとの色別区分も行われた。歩・砲・工・輜重兵が衣袴とも「紺絨」なのに対して、屯田兵の袴については「藍霜降絨」とされ(衣は紺絨)、「藍霜降に赤ライン(緋色側章)」という独特のスタイルは、屯田兵を象徴する服装として後世にも伝わった。
「藍霜降に緋色側章」の屯田兵の姿は、東旭川屯田兵の廣澤徳治郎が記録した『屯田兵絵巻』にも色鮮やかに描かれている(右の絵図)。
美唄の屯田騎兵は、衣袴とも「紺絨」だが、下士に限っては「茜絨」とされた。袴の長さは、乗馬のため膝までで裾口にスリットが入れられた。襟章、肩章、側章はいずれも萌黄色。
明治19年改正で定められた屯田兵の服制は次の通り。ただし、実際の運用は「屯田兵については、従来給与数及び保存法等も異なり、費用の都合もあるので漸をもって施行する」(明治19年2月8日大山厳陸将通達)とされた。寸は約3cm、分は約3mm。(明治19年3月1日官報第795号附録による)
兵種 | 袴 | 側章 |
---|---|---|
憲兵 | 藍絨 | 緋色 |
歩兵 | 紺絨 | 緋色 |
騎兵 | 茜絨 | 萌黄色 |
砲兵 | 紺絨 | 黄色 |
工兵 | 紺絨 | 鳶色 |
輜重兵 | 紺絨 | 藍色 |
軍楽隊 | 茜絨 | 茜色 |
屯田兵 | 藍霜降絨 | 緋色 |
会計部 | 紺絨 | 花色藍 |
軍医部 | 紺絨 | 深緑色 |
○第一種帽
革・黒色 日章:真鍮製直径2寸 前立:熊毛、上部白2寸5分、下部緋2寸2分、金物真鍮
○第二種帽
絨・紺色 星章:真鍮製 庇:黒革 顎組:黒革、真鍮釦 横章:黄絨
○衣
絨・紺色 釦:赤銅 襟章:緋絨
袖章:平織金線、黄絨
曹長・軍曹は、金線2分1条、大線8分1条、小線2分(曹長3条 一等軍曹2条 二等軍曹1条)
兵卒は2分幅で上等兵3条、一等卒2条、二等卒1条
肩章:緋絨
○袴
絨・藍色霜降(他の兵種は右の区分表のとおり)
側章:緋絨幅5分 靴踵の際上までの長さ 両股各1個物入
○夏衣
雲齋(うんさい=厚地の綿布) 袖章:下士のみ黄本呉絽(ごろ=梳毛織物) 袖長:腕関節まで
○夏袴
雲齋
○外套
絨・紺色 釦:黒角大径8分 小径5分5里 袖章:黄毛縁2分幅
[編集] 被服・装具の給与
屯田兵の通常経費が北海道庁から陸軍省に移管された明治23(1890)年9月5日、「屯田兵給与令」(勅令第201号)が公布され、被服・装具についても種別、給与数、共用期限などが詳細に定められた。下士兵卒の被服は大小の区分で、計15品目に分けられ、装具には被服の手入れ用具12点も並ぶ。
被服・装具の給与表によると、衣袴は、第一種、第二種と夏衣袴の三種で、騎・砲・工兵に対しては作業衣が給与された。第一種衣袴は、明治19(1886)年の改正陸軍服制に沿った紺絨・5つボタンの軍衣に藍霜降・緋色側章の軍袴で、式典などで着用する正服。第二種衣袴は、教練・演習の際に用いられた。「屯田兵給与令細則」によると、ほかに演習服、演習帽などが給与された。
第二種帽(写真右)は、紺絨に黄絨の横章、真鍮製の星章が付き、庇は革製。給与表には記載されていないが、礼装用の黒革製の第一種帽は、明治19年改正服制により白の前立とともに屯田兵に支給された。
靴・靴下は「時宜により草鞋(わらじ)・草鞋掛けに換えて給与」とされた。琴似屯田兵が草鞋を常用していたとする山田勝伴の記録に加え、明治18(1885)年に野幌に入植した屯田兵・吉原兵次郎が「紺脚絆にわらじ履きと言う異様な軍服姿の伍長や多数の兵士に案内された」との回顧談(『野幌兵村史』)を残していることから、屯田兵の草鞋履きはそれほど珍しいものではなかったことをうかがわせる。
細則の「給与表」によると、手套(手袋)は、木綿製で伸縮性のあるメリヤス仕様のものも用いられた。
被服・装具の給与表(明治24年屯田兵給与令)に掲載されている被服品目は次の通り。(カッコ内は兵卒に対する給与員数。共用期限はいずれも7年)
○第二種帽(2個) ○第一種衣袴(1組) ○夏衣袴(2組)
○外套(1個) ○第二種衣袴(2組) ○襟布(2個)
○冬襦袢袴下(3組) ○夏襦袢袴下(3組) ○木綿製手套(2組)
○短靴(6組) ○革製脚絆(騎兵に2組) ○麻製脚絆(歩砲工兵に2組)
○靴下(9組) ○拍車(騎兵に1組) ○作業衣袴(騎砲工兵に1組)
(靴・靴下は時宜により草鞋・草鞋掛けに換えて給与)
装具品目(給与員数はいずれも1個または1組)は次の通り。
○屯田兵手帳 ○背嚢(歩砲工兵に2組) ○絨刷 ○靴刷
○磨刷 ○燕口袋 ○属具袋 ○塗墨器
○煉脂器 ○櫛鋏 ○錘糸巻 ○糸・針
○ 寝具(半部厚毛布)
写真は教練に参加した制服姿の一已屯田兵、各種の衣袴を混用している(『歴史写真集 屯田兵』より)
[編集] シンボルカラーの終焉
明治27(1894)年の日清戦争に動員された屯田兵は、東京の竹橋兵営に駐屯した際に、「近衛兵から霜降り赤線のズボンが羨ましがられた」(『開拓使最初の屯田兵』『琴似屯田百年史』)というエピソードが残されている。「霜降」は税関吏の官服に採用された例(『神戸税関百年史』)があるが、軍関係では珍しい素材で(明治3年の陸軍徽章では歩兵の袴が「鼠色霜降に黒側章」とされ、明治6年の陸軍武官服制で「紺大絨」に改められた)、学生服に使われたこともあって当時の若者の憧れのファッションとして流行したことも背景にあったと見られる(岡山県『岡山県の繊維産業』)。
しかし、征清第1軍に編入された際に、屯田兵特有の「藍霜降」が問題ともなった。元々、地域限定の少量生産のため、急な増員や転科の度に不都合が生じるという理由から、陸軍省は日清戦争終結後の明治28(1895 )年9月、他と同じ紺色に統一することを決め、屯田兵の「霜降ズボン」は漸次姿を消していった(陸達第89号)。これに代えて陸軍省は、屯田兵の識別のため軍衣の襟の両端に特別の徽章を付けることとした(陸甲第108号)。この特別襟章のデザインは、「陸達第88号」(明治28年9月30日)によると、3つの尖端が閃光を連想させる幾何学模様で、大きさは5分(約1.5センチ)、品質は金属鍍銀色、詰め襟の前部、左右に一個ずつ対称に付けるものとされている。左右一対で「北」の文字に見える。
写真は衣袴とも「紺絨」の剣淵屯田兵
[編集] 日露戦争でも異彩
明治37(1904)年開戦の日露戦争では、「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(勅令第29号)に基づいて、満州の土色に合わせて「茶褐色(カーキ色)」の戦時服が採用された。しかし、第三軍に編入増派された第七師団の将兵は、動員された後備役の屯田兵も含めて従来の「紺絨」の軍装で出征・帰還した。
[編集] 袖章による階級の識別区分
明治19(1886)年の改正陸軍服制により、屯田兵の階級は、一般の兵種と同様に、上衣の袖章によって識別区分された。
下士官は幅2分(約6mm)の金線と幅8分(約24mm)の黄色の大線が入り、幅2分(約6mm)の黄色小線の本数により、曹長3条 一等軍曹2条 二等軍曹(旧・伍長)1条と区分された。
兵卒は2分幅の小線のみで、本数により上等兵3条、一等卒2条、二等卒1条と区分された。
夏衣の袖章は曹長、軍曹のみ黄本呉呂の山形の線が1条入り、兵卒には袖章がなかった。
(明治19年3月1日官報第795号附録による)
[編集] 将校の服装
屯田兵制度が制定された当初の将校の軍衣は、明治6(1873)年の「陸軍武官服制」に沿って、濃紺絨で紐状の胸飾りが特徴の肋骨服(ろっこつふく・明治42年廃止)が採用された。その後の数次の改正により、礼装や略服の細部が定められ、華やかな金線を使った袖章の礼服が式典などの際に着用された。
明治19(1886)年の改正・陸軍服制により、屯田兵佐尉官・下副官の軍袴は下士・兵卒と同様に「藍霜降絨に緋絨の側章」、第二種帽の横章も同じく「黄絨」と定められた。第一種帽については、明治3(1870)年から採用された頭頂部の五芒星(ごぼうせい)の刺繍がそのまま継承された(下士兵卒は無地)。軍衣については、佐尉官は「濃紺絨」下副官以下は「紺絨」で、従来の肋骨服はそのまま踏襲された。
美唄に配置された騎兵科の将校は、肋骨服に「緋絨」の軍袴、側章と襟が「萌黄絨」という騎兵独特の色別区分が用いられた。
写真は明治27年ころの篠路屯田兵、将校は肋骨服(『歴史写真集 屯田兵』より)
[編集] 屯田兵の証言から
- 吉原兵次郎(野幌・明治18年7月入地 石川県出身)
(入植時)紺脚絆に草鞋履きと言ふ異様な軍服姿の大釜伍長や多数の兵士に案内され、野幌兵村指して徒歩で出発した。
屯田兵の冬の軍服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は体を曲げると背が見える短いものであった。夫れに紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許された。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸もない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けたが、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与を見ると全く隔世の感を深くする。(1934年『野幌兵村史』)
- 今井良三郎(輪西・明治22年5月入地 福岡県出身)
現役時代は、昔の兵隊は、イッシュ服(第一種服)イッシュ帽(第一種帽)で観兵式に出ました。イッシュ帽といいますと、皮の丁度、輪っぱみたいな黒い皮に漆(うるし)を塗りました帽子をかぶりましてね。それに巻いた毛を差して、筆みたいな、棒みたいなものを前に差して、それがイッシュ帽になる訳です。イッシュ服(第一種服)といいますとジュ服ですね、つまりラシャ服を着まして、屯田兵はズボンが霜降りでした。内地兵は黒ラシャですがね。それを着まして観兵式か、本部にみんな召集されて行って、それが済むと昼から(開墾に)出なきゃならないのです。(1973年『室蘭屯田兵』・1968年NHK収録の回顧談)
- 目良謙吉(永山・明治24年7月入地 和歌山県出身)
(入植の7月1日)「永山村」と大書した標柱がある。兵村一番地だ。赤えり軍服で刀を下げた軍人が「貴様の行く所は...」と兵屋の位置を丁寧に教えてくれる。(1962年『永山町史』)
- 萩原藤太 (一已・明治28年5月入地 佐賀県出身)
被服・武器ですが、小倉服一着、棒しまのシャツ一枚、ズボン下一枚でした。これで冬季でも訓練されたものです。雪中に入ると、身体のぬくみのため雪が解け、それが凍り、腰から下はズクズクになってもなんら意にも介せず、猛訓練をやったのであります。(1943年『屯田兵座談会』)
- 三品玉吉(湧別・明治31年9月入地 福島県出身)
初めはそんなんでもなかったけどもな。後になると、ボタン一つなくしても、軍服の取り扱いが悪いということで、罰に本部などの草取りを一日させられて、飯も食わしてくれなかった。(1968年『上湧別町史』)
- 三浦清助(湧別・明治31年9月入地 福島県出身)
官物はもらたっというより借りていたと言った方が良いですよ。新品をもらうときは、今まで使っていた物を戻さんきゃならんしね。その時がまたうるさいですよ。服がすすけてる、手入れが悪い、などとね。すすけるのは当たり前ですよ、焚き火をしているんだから。靴なんかもそうですよ。傷みがあると、畑仕事ではいたんではないか、と叱られてね。(1968年『上湧別町史』)
- 木村才次郎(士別・明治32年7月入地 山縣県出身)
各自の兵屋には軍服2着、背嚢、銃などを保管してあるので、班長が軍服や銃の手入れを検査し、これをきちんとやらなければ絞られた。高官が士別に来ると官給品を家の前に並べ検閲を受けた。(2007年『士別屯田覚え書』)
[編集] 参考文献
- 『図鑑 日本の軍装 下巻』 (笹間良彦著、雄山閣出版、1970年)
- 『日本の軍装 幕末から日露戦争』 (中西 立太著、大日本絵画刊、2006年)
- 『日本の軍隊 ものしり物語』 (熊谷直著、光人社刊、1989年)
- 『歴史写真集 屯田兵』 (改訂増補版、北海道屯田倶楽部刊、1989年)
- 『北海道文化財 第10集 屯田兵』 (北海道教育委員会刊、1968年)