吉原兵次郎

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目次

[編集] プロフィール

吉原 兵次郎(明治18年7月入地 石川県出身 兵屋番号365番)

[編集] 出典元

『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)
志願の動機については『屯田兵座談会 開拓血涙史』(1943年・昭和18年)

[編集] 要旨

  1. 志願の動機について
  2. 小樽での見聞
  3. 無蓋貨車で手宮を出た後、乗客全員が防止を風で飛ばされた
  4. 江別駅頭の出迎えの様子
  5. 原始林の中の兵屋、熊も徘徊していた
  6. 婦女子は泣いてばかり、方言が通じなかった
  7. 大通の教練で行った札幌の様子
  8. 仙台の大隊と市街戦の演習、市民を驚かせた
  9. 兵村に武芸達者は多かったが、開墾には難儀した
  10. 予備役になっても軍務は厳しく、生産はわずかだった
  11. 牛の飼育の苦労話
  12. 50年経て立派な兵村部落を形成できた
  13. 60歳の老人が何十人も要旨を取った話
  14. 雪と寒さについての苦労話

[編集] 証言内容

  1.  私は恰度明治十八年、石川縣から募集されて来たのであります。父が警察官でありましたので屯田兵志願のことについては、母も私共も一切知らなかつたので&ります。私は偶々、縣廳から身體検査をするから来いと云ふので参りました。體が非常によかったので、幸ひに合格したのでありますが、検査を何んのためにやるのか、すこしも判りませんでした。そして、後になって北海道に行かねばならぬことを聞いて大騒ぎをしたのです。その為め、親類の者が、集って願ひ下げをするとか、行ってはいけないとか、随分反對をされたものです。あの時分では、北海道と云へぱ、現在に於ける北極探険以上に心配したものでした。却々父の意思に、家族や親類の者が同意しないのであります。その時、後年琴似の村長になられた方ですが、縣大尉が見へて説得してくれましたので、家族のものも、それなら行ってもよからうといふことになりました。父は無論喜びました。當時父は非常な決心でどうしても、北海道を墳墓の地として、再び帰らないと決心してゐたやうでした。然し賓際はその後何度も婦りましたけれども〜そして、本當に南極から北極へでも行く気持で、北海道に渡って来たのであります。
  2. 私は石川県金澤の旧藩士で、屯田兵に応募して鹿児島、熊本、佐賀、鳥取等各県多数の士族の人々と佐渡丸に乗せられて小樽港に上陸したのは、忘れもせぬ明治十八年六月三十日である。吾等の一行は唯今でも有名であるキト旅館に分宿したが、今は埋立工事の為に色内町は市街の中央であるが、其頃は其處が海岸で銭函村で見る様な風景で余りの珍しさに、友人と海に入って沢山の昆布を採ったが、遣り揚が無く旅館の前に捨て置いて番頭を苦笑せしめた事や、義経や辨慶、常盤、比羅夫などと昔の蝦夷に因んだ人々の名を金文字で大書した小型の機関車で走る汽車と言ふものを、臍の緒切って初めて見たので驚嘆した事や、海岸の露店の爺に奥地に行けば燈火がないと劫かされて五分芯のランプと石油一升を買わされ、道中全く荷厄介で困った事や、種々の事が思ひ出される。其夜魚油の行燈の明かりと鰊油臭味を忍んだのも追懐の種だ。
  3. 明くれば七月一日手宮駅で乗せられたのが總て運炭用の無蓋貨車であった。大勢の中で帽子を被って居ったのが私と弟の茂男の二人であったが、汽車の疾走中右顧左顧する内に、熊碓辺で吹飛ばされた。それで結局は乗客の全員が無帽となった訳である。今から考えると変だが其頃の風俗が伺われる。又当時を追懐して今の小樽の拡張殷盛に驚かされる。
     
  4. 其日江別駅に下車して、今の第一校のある中隊本部の前に集合し、夢見る様な気分で宣誓式や其他種々な注意を受けた。其日彼れ之と世話して呉れた福井少尉試補や、釧路連隊司令官になった徳江曹長や、後の江別町長たる名越曹長の顔が心に浮かぶ。
  5. 紺脚絆に草鞋履きと言ふ異様な軍服姿の大釜伍長や多数の兵士に案内され、野幌兵村指して徒歩で出発したが、七十一の祖母や幼い弟妹が歩けぬとて泣かれたが、兵隊が親切に扶けて呉れた感謝の念が今尚去らぬ。偖て落付く先は昼尚暗き原始林の中にある兵屋で、一年許りは月光も見ねば日光の直射も受けられず、隣家も背丈もある熊笹の為に遮られて見えず、全く淋しいものであった。時々熊が遠慮もなく人家の付近を徘徊した。犬も猫も鶏も居らず、鳥も雀も来なかった。毎日聞くもの梟の声ばかりであった。
  6. 現今は教育の普及で言葉も共通するが、其頃は各県の言葉が相互に解らず、特に婦人と来ては全く不可解で困った。婦女子は望郷の念にかられ毎日為すこともなく泣いて居った。我等は練兵の余暇に本部から貰った大きな斧と鋸を特出して大木に向かったが、とても伐倒す勇気がなく呆れる外なかった。或時給与地の家屋から百聞境を調べるとて、弁当持参で隣家の友人と葡萄蔓や熊笹を押分け探検隊気分で出かけたのも滑稽であった。
  7. 今は四通八達であるが其頃は札幌に出るのに一筋の人道がない。行軍などの時は石狩川沿の鹿道を辿り苗穂を経て漸く札幌に出て、大通りの第一大隊の練兵場で教練をしたものだ。其頃は未だ三県分立の時代で、札幌県令は調所廣丈氏で、現今の道庁調所土地改良課長の父君である。札幌市中の建物も何れも矮小で仮家の様なものが多かった。皆が土着心が無かった為だと思われた。
  8. 其年の九月頃かと記憶するが、未だ訓練も碌に出来ぬ、敬禮すら解らぬのに、機動演習に参加し、南一条の西五丁目辺の空家に一週間も村落露営を績け辛酸を嘗めた。琴似山鼻の先輩兵村と合同し屯田兵第一大隊が編成せられ当時函館に有った仙台一個大隊と豊平川を挟んで市街戦を演ぜられ札幌市民を驚かしたのも愉快であった。確か炊事場が今の北海道銀行のある創成川端であったと記憶する。其様な状況を思ふ時、今日の札幌は実に著しい発展振りである。
  9. 私等が募集の頃は戸籍法の制定がない。年齢なども確実でない。私と同分隊の小川善郎君が数へ年十六で、中隊中の最年少者であった。又中には、十年の役に西郷軍の中隊長で天晴の武功を立てた大尉格で四十にも近き竹原為徳、前谷昇一などと言ふ豪傑諸君が、年を若くして再び兵卒として働いたといふ面白い事実もある。兵村の人は何れも武藝は達者だが、稼檣の途は至って疎とく、故に土地の新墾は中々捗らぬ。時折巡回の士官に叱られると、傅家の一刀を引抜いて、後ろ鉢巻切り声で熊笹を薙ぎ払ったと言ふ珍談もある。
  10. 三年の歳月は早くも経過して扶持米其他の給養が一時になくなった。併し土地から穫れる生産物では二三ヵ月の生活を支へるにも足らぬ。数年の後制度が変って予備役となったが、軍務の方は現役と少しも異なる處がなく、中々に厳しい。如何に生活に困っても、軍部では対面上私等の部外奉職を許可せぬ。已むなく下級労働に走ったものも多かった。当時兵村の疲弊困憊の状は実に悲惨であった。
  11. 兵村が日露戦争に出征した後は最も地力が減耗しに居ったが、地方復興策として時々村に帰って、牛の飼育を勧誘した。牛は飼ったが牛乳の遣り場がなく、又排泄物の利用も充分でなかった。乳で風呂を立てて見たが、ぬらぬらして気持ちが悪くて止めたと、兵村で牛の飼育の率先者である山岸太三君の述懐談を間いた事がある。
  12. 星移り物変り、茲に五十年を迎ふ事となった。様々な道程を経て今日の立派な兵村部落を形成した。畜産方面より見ても、財産造成の方面より見ても模範的である。之れは偏に辛抱して残留せる戦友と、それに連なる諸士の愛郷の念に燃ゆる努力の結晶である。今往時を追懐し敬意と感謝の意を表し、吾野幌兵村の将来を祝福すと謂う。
  13. 五十年の昔を振り返って見て、現代日本の教育の普及発達は実に驚くべきで、私等が屯田兵に志願した頃は生兵と称せられ、六ケ月間生兵學の訓練を受け始めて二等卒の階級に進み、漸く一人前の兵隊になったものだ。今考えると聊か不思議の感があるが、之れは屯田兵許ではなく、内地の鎮台も同様だったと思う。私が子供の時分に郷里の金澤の市中を無筋無腰の兵隊が、三筋の袖章を付けた上等卒に引卒せられて散歩するのを見たものだ。唯今は将校も下士も始の中は一般兵士と起臥を共にし、教育を受けて順序に進むが、其頃は士官は始めから士官学校に下士官は教導團に入り、卒業の上で入隊するから、兵隊との親みが薄かった。又其頃戸籍の制定が無かったから、北海道に戸籍を移すか又は六十歳以上の戸主の養子になれば兵役を免ぜられる規則で、六十歳の老人が一時に何十人も養子を持ったといふ珍談も聞いた。故に比較的無智な農山漁村の子弟が多く入隊したから、中には左右といふ言語を解せぬといふ嘘の様な事実もある。教育の力の至大なる事と大切なる事が誠に痛感せられる。
  14. 移住した頃は原始林であった為か、零下何度か知らぬが、寒気が酷烈で降る雪は何時でも灰の様にサラサラであった。其頃屯田兵の冬の軍服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は体を曲げると背が見える短いものであった。夫れに紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許された。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸もない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けたが、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与を見ると全く隔世の感を深くする。君恩の辱けなさと國運の発展に歓喜の涙が自然に涌く。
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