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[167] 琴似子孫会永峯様と連絡を取りたく 投稿者:会津会会報誌委員野村紀子 投稿日:2024/02/09(Fri) 19:02  

会津会会報誌委員の野村と申します。琴似屯田150年を迎えられると聞き、会報誌への投稿について相談したく思っていますので永峯事務局長のコンタクト先を教えて頂けないでしょうか。
どうぞ宜しくお願いいたします。


[166] 屯田兵日記に登場する工藤彦三郎の子孫です。 投稿者:三谷 投稿日:2024/01/08(Mon) 00:28  

初めまして。工藤彦三郎(高祖父)の子孫で三谷誠一郎と申します。
昨年末に実家を訪れ、母が購入した屯田兵日記を拝読し、このHPに辿りつきました。個人的に10年以上前に自分のルーツを調べたくなり、個人的にネット検索等で調べていました。
私の父、故三谷静夫が生後間もなく養子に出されており、工藤家とは父の代では縁はなく、父からも工藤家のことは一切話は聞いたことはありませんでした。
戸籍で調べたところ、工藤彦三郎は本の通り琴似に屯田兵第一陣として山形の山形県西田川郡鶴岡町から入植しています。西南戦争へも北海度から出征していたようです。彦三郎の長男の直方(吉之助)は北海道人名辞典に名前が出ており、札幌農学校の会計課長、北大の事務官をしていました。直方の息子尭夫(私の祖父)の消息は分かりませんが、私の父静夫は即、子に恵まれない三谷家に養子に出されたようです。
三谷家も明治18年頃、岩見沢に入植した鳥取からの士族移民で高祖父にあたる三谷伝吉は神社の神主をしていました。
自分なりにルーツを調べていましたが、現在、埼玉県に住んでおり、情報のない中、10年が過ぎ、先日、上述の本やこのサイトに出会い、昔のように興味がわいてきました。
もし、この会の関係者の方で工藤家とお知り合いで連絡が可能な方がおられるようでしたら、ご一報いただけると大変助かります。


[165] Re:[164] [160] 兵村の居住資格について 投稿者:村中 投稿日:2023/11/17(Fri) 07:01  

随分昔の書き込みでしたが、ご返信戴きありがとうございます。
私の祖母が篠路兵村を出て嫁いだのが大正13年でしたので、その頃には売買がある程度あったとみるべきなのでしょう。
樺戸集治監の話は知りませんでした。昔、吉村昭の「赤い人」という作品で樺戸のことを知りましたが、そこに縁があったとは意外な驚きです。
お手間でなければ、北海道集治監報がどこで閲覧できるかご教示戴ければ幸いです(いずれ自分でも調べてみたいと思います)。


> ご参考程度ですが、
> 私の高祖父は大正14年頃に篠路兵村の屯田兵が転出した後に土地を買い転入しています。また、ご存知かも知れませんが、江藤虎喜という方の名前は北海道集治監報の樺戸(現在の月形刑務所)に記載があります。屯田兵の任期を終えた後は今でいう刑務官をされていたのかも知れません。江藤氏以外にも篠路兵村の屯田兵の関係者らしき名が多く見え興味深いです。
> (メールでも同じ内容送りましたが、エラーとなったためこちらにも送ります
> > 戸籍謄本によると、祖母は大正年間に「篠路村字兵村」にいたことが分かっています。
> > その父の名は「江藤勇喜」といい、明治22年に兵屋番号=123で入植した「江藤虎喜」の子孫と思われますが、確証がありません。
> >
> > 屯田兵村は元々が官給地の扱いであること、自由に売買ができない建前であったことから、「たまたま似たような名前の人が外部から入ってきた」可能性を排除できれば、かなりの確率で子孫と見なせそう、と考えました。
> >
> > そこで、とりあえずの手がかりとして、屯田兵関係者以外がこの地に居住できるようになった時期を探りたいのですが、どなたかご存じの方がいらっしゃったら教えて戴きたいのですが。。。
> >  ※確実性は重視していませんので、ヒントでも戴ければ幸いです
> >



[164] Re:[160] 兵村の居住資格について 投稿者:しんのろに 投稿日:2023/11/16(Thu) 23:11  

ご参考程度ですが、
私の高祖父は大正14年頃に篠路兵村の屯田兵が転出した後に土地を買い転入しています。また、ご存知かも知れませんが、江藤虎喜という方の名前は北海道集治監報の樺戸(現在の月形刑務所)に記載があります。屯田兵の任期を終えた後は今でいう刑務官をされていたのかも知れません。江藤氏以外にも篠路兵村の屯田兵の関係者らしき名が多く見え興味深いです。
(メールでも同じ内容送りましたが、エラーとなったためこちらにも送ります
> 戸籍謄本によると、祖母は大正年間に「篠路村字兵村」にいたことが分かっています。
> その父の名は「江藤勇喜」といい、明治22年に兵屋番号=123で入植した「江藤虎喜」の子孫と思われますが、確証がありません。
>
> 屯田兵村は元々が官給地の扱いであること、自由に売買ができない建前であったことから、「たまたま似たような名前の人が外部から入ってきた」可能性を排除できれば、かなりの確率で子孫と見なせそう、と考えました。
>
> そこで、とりあえずの手がかりとして、屯田兵関係者以外がこの地に居住できるようになった時期を探りたいのですが、どなたかご存じの方がいらっしゃったら教えて戴きたいのですが。。。
>  ※確実性は重視していませんので、ヒントでも戴ければ幸いです
>
>
>


[163] Re:[162] [134] 東和田屯田兵の子孫です 投稿者:小澤彼歩 投稿日:2023/08/06(Sun) 07:27  

先程の件、補足します。
大野綏定さんについて、名前だけでは別人の可能性もあるため詳細記述します。
こちらの記録によれば、1867年5月26日金沢生まれで、父は大野綏之、母は(浅田)カシクとなっております。同一人物であると良いのですが…。
全くの初心者で勉強不足なもので、他にも必要な情報が抜けていたら申し訳ございません。ご指摘いただけますと幸いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

> はじめまして。
> 私は大野綏定さんのかつての妻、今川トワさんの子孫で、小澤彼歩(おざわ かれぶ)と申します。根室市出身、青森県在住、26歳です。つながりのある方の名前を見つけて嬉しく思い、何かの縁かと思いましたので投稿させていただきます。先祖の情報は家系図サイトを使って管理しております。ご連絡いただければ、詳細お伝えしますのでよろしくお願いいたします。(見逃さないように気をつけます…。)
> 情報交換等もできたらと思ったのですが、あまり参考になる情報は持ち合わせていないかもしれません。申し訳ございません。
> ルーツ探求については全くの初心者ではありますが、もし何か情報を入手できましたら、再度投稿したいと思います。
> 何卒よろしくお願いいたします。
>
>
> >  明治19年6月に東和田に入植した石川県出身の大野綏定の子孫です。
> >  根室市にある除籍謄本で高祖父の氏名しかわからず先祖調査も終わりかなと思っておりましたが、高祖父が屯田兵で石川士族であったことがわかり、金沢の加賀藩と関係がないか調べたところ、富田下総氏や本多政均氏の家来であったことがわかりました。
> >  金沢県立玉川図書館近世史料館に保管されていた先祖由緒並一類附帳という書類の中に大野綏定の父である綏之が安政4年に加賀藩本多家に提出した先祖由緒の史料がありました。
> >  これにより私から見て11世祖までの氏名と没年、檀家寺が判明しました。また、加賀本多博物館にある史料から綏定が大正時代に恩師に送った手紙も発見できましたので、10月14日に金沢市に行き、史料の原本やお寺などを訪問したいと思います。
> >  金沢市役所では明治40年以前の戸籍は処分されているので、石川県にいた時の住所は不明のままで、追跡不可能のようです。新たな情報等がありましたら投稿したいと思います。
> >  


[162] Re:[134] 東和田屯田兵の子孫です 投稿者:小澤彼歩 投稿日:2023/08/06(Sun) 06:50  

はじめまして。
私は大野綏定さんのかつての妻、今川トワさんの子孫で、小澤彼歩(おざわ かれぶ)と申します。根室市出身、青森県在住、26歳です。つながりのある方の名前を見つけて嬉しく思い、何かの縁かと思いましたので投稿させていただきます。先祖の情報は家系図サイトを使って管理しております。ご連絡いただければ、詳細お伝えしますのでよろしくお願いいたします。(見逃さないように気をつけます…。)
情報交換等もできたらと思ったのですが、あまり参考になる情報は持ち合わせていないかもしれません。申し訳ございません。
ルーツ探求については全くの初心者ではありますが、もし何か情報を入手できましたら、再度投稿したいと思います。
何卒よろしくお願いいたします。


>  明治19年6月に東和田に入植した石川県出身の大野綏定の子孫です。
>  根室市にある除籍謄本で高祖父の氏名しかわからず先祖調査も終わりかなと思っておりましたが、高祖父が屯田兵で石川士族であったことがわかり、金沢の加賀藩と関係がないか調べたところ、富田下総氏や本多政均氏の家来であったことがわかりました。
>  金沢県立玉川図書館近世史料館に保管されていた先祖由緒並一類附帳という書類の中に大野綏定の父である綏之が安政4年に加賀藩本多家に提出した先祖由緒の史料がありました。
>  これにより私から見て11世祖までの氏名と没年、檀家寺が判明しました。また、加賀本多博物館にある史料から綏定が大正時代に恩師に送った手紙も発見できましたので、10月14日に金沢市に行き、史料の原本やお寺などを訪問したいと思います。
>  金沢市役所では明治40年以前の戸籍は処分されているので、石川県にいた時の住所は不明のままで、追跡不可能のようです。新たな情報等がありましたら投稿したいと思います。
>  


[161] 富山県下新川郡から一已に入植した中西常次郎の子孫を探しています 投稿者:中西憲之 投稿日:2023/04/30(Sun) 09:50  

東京都大田区の中西憲之と言います。
私の祖父中西米次郎は除籍票によると雨竜郡深川の一已の中西常次郎から分家した
ことになっています。米次郎は四男で分家後に札幌に居住しました。
私のルーツ探しの一環で常次郎さんの子孫を探しております。
現在の居住地をご存じの方がおられましたら、こ連絡をお願いいたします。
なお、中西常次郎の屯田兵データは、
識別番号: 5470
入植年: 明治29年4月
兵村: 南一已
兵屋番号: 323
富山県下新川郡から入植となっております。

中西憲之連絡先
メール: nakanishi1971@gmail.com
携帯: 080-3258-8694


[160] 兵村の居住資格について 投稿者:村中 投稿日:2023/04/14(Fri) 12:28  

戸籍謄本によると、祖母は大正年間に「篠路村字兵村」にいたことが分かっています。
その父の名は「江藤勇喜」といい、明治22年に兵屋番号=123で入植した「江藤虎喜」の子孫と思われますが、確証がありません。

屯田兵村は元々が官給地の扱いであること、自由に売買ができない建前であったことから、「たまたま似たような名前の人が外部から入ってきた」可能性を排除できれば、かなりの確率で子孫と見なせそう、と考えました。

そこで、とりあえずの手がかりとして、屯田兵関係者以外がこの地に居住できるようになった時期を探りたいのですが、どなたかご存じの方がいらっしゃったら教えて戴きたいのですが。。。
 ※確実性は重視していませんので、ヒントでも戴ければ幸いです





[159] Re:[158] 伊予松山藩士宮内克明とその子克修について 投稿者:屯田編集室 投稿日:2023/03/27(Mon) 18:15  

> 明治29年ころと思います。どこに、屯田兵として入植したか調べています。御教示ください。

『納内屯田兵村史』(昭和52年)に、「宮内克明」と「宮内克修*」についての記述があります。
以下、その概要です。
1.戸籍によると、克明は安政4年12月6日生まれ、明治34年5月2日没。克修は克明の長男で、明治3年12月18日生まれ。
2.克修は明治28年5月、納内屯田兵として入植。兵屋番号40。(父克明は附籍者=同伴家族として入植したと思われる)
3.克修は軍曹として日露戦争に出征し、勲七等青色桐葉章を受章。出征記念碑に「宮内克脩*」の記名がある。
4.克明は明治29年開校時の納内小学校教員を務め(1ヵ月で退職)、33年1月から34年5月(死亡)まで三代目校長。
5.克修は明治35年4月から6月まで納内小学校代用教員を務め、後に一已村収入役に就任。
以上

私の祖父・宮内隆吉は、同じ明治28年5月に愛媛県から納内屯田兵として入植しました。
同時期に同じ愛媛から宮内保次郎氏が入っており、克脩氏を含め3家の関係を調べております。
何か関連情報がありましたら、お知らせ下さい。


[158] 伊予松山藩士宮内克明とその子克修について 投稿者:高市 俊次 投稿日:2023/03/26(Sun) 18:14  

明治29年ころと思います。どこに、屯田兵として入植したか調べています。御教示ください。


[157] Re:[151] 西和田兵村の稲光眞七郎の子孫です。 投稿者:大野良弘 投稿日:2023/01/18(Wed) 22:19  

 根室市には多くの場所にお墓がありますので、全部を当たることは無理があります。また、真七郎さんのお墓が根室市にあるとは限りません。真七郎さんの長男さんが永住していた市町村にお墓を建ててそこに真七郎さんも一緒という可能性の方が高いと思います。
 根室市で屯田兵の兵役をしていたのは数年間だけなので、その後の転居先も調べる必要があります。
 情報が少ないので、憶測でしか答えられませんが、ご参考までにお答えいたします。
 なお、福岡県宮若市に稲光という地名があり、稲光城という山城も存在していたようです。
 稲光さんはそこから北海道に来たのでしょうかね。
 新しい発見ができることをご祈念しております。
> 除籍を調べていましたら、僕の母方の先祖にあたる方が
> 福岡県より屯田兵として西和田に来ていることがわかり、
> このサイトに辿り着きました。
> 当時からある和田地区のお墓の住所等ご教示頂けないでしょうか。
> お墓参りなどさせて頂きたいです。
> よろしくお願い申し上げます。


[155] 輪西屯田兵、三谷惣次郎の子孫です。 投稿者:由美 投稿日:2022/12/01(Thu) 21:55  

現在は叔父が札幌市で三谷姓を継いでおります。
以前中嶋神社で屯田兵についての石碑をみました。
現在、祖母の家にあった日本刀(登録済み)を所有しているのですが、
この日本刀について詳しく知る家族がおらず、私の希望で手元にあります。
屯田兵は日本刀なども、所持していたのでしょうか?
まだ屯田兵について、詳しく調べられておらず無知でおはずかしいですが、
もしかしたら三谷惣次郎が持っていたものなのかな、とワクワクしております。

屯田兵の子孫の方などで、三谷惣次郎と交流があった等、何か情報があれば
嬉しいです。


[154] Re:[153] 会報第72号記事「新琴似中隊本部銃撃事件についての疑問」について 投稿者:江口憲人 投稿日:2022/11/22(Tue) 22:07  

>明治23年のレミントン銃を用いた暴行事件の裁判資料は初めて見ました。大変参考になり有り難うございます。第1大隊第3中隊の現役兵が「官給」のレミントン銃を使ったことが明確に述べられていますね。
 但し、この資料から第3中隊の制式配備小銃がレミントンであったと結論する自信はありません。
まずレミントン銃の購入が古いものであること(西南戦争のために開拓使が購入)。明治27年までに全ての屯田兵配備のレミントン銃を回収したこと(屯田兵の小銃配備は中隊単位であり、中隊が予備役を解除になった時点で回収)。明治10年代後半より民間の個人や企業にレミントン銃を放出していること。レミントン銃の管理が北海道庁と陸軍省の間でやりとりされていること。などがあり、「官給」の銃が必ずしも制式装備の銃とはいえないのではないかと思われるからです。
 引き続きご教示をいただけると幸いです                              江口



[153] 会報第72号記事「新琴似中隊本部銃撃事件についての疑問」について 投稿者:堀口 一寿 投稿日:2022/11/21(Mon) 15:33  

会報拝読しました。
特に使用した銃器について官給品か私物かについては、
確定できる根拠が、不足しています。
ただし、以下の史料から当時の新琴似兵村の官給品の銃器はレミントン銃と推察できます。

「月報 屯田兵司令部(2)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09060159800、明治27年 本省憲兵屯田 月報(防衛省防衛研究所)

これには、明治23年8月17日に発生した屯田兵第一大隊第三中隊所属の豫備役二等卒による発砲事件の裁判宣告が掲載されています。
被告人の氏名は、黒く塗りつぶされているため不詳ですが、被害者が「本田末吉」となっており屯田兵名簿データベースから屯田兵第一大隊第三中隊が「新琴似兵村」と分かります。

この裁判宣告の内容には、被告人は「當時所持シ居ル實弾ヲ官給レミントン銃ニ装填シ之ヲ提ケテ···」と記載されています。

今のところ、本史料以外で新琴似兵村の官給品の銃器が「レミントン銃」の記載は未確認ですので確定することはできないのですが···
また、私物の銃を使用した可能性も否定できません。

ただし、官給銃に実弾を装填していますが、なぜ所持できていたのかも不明です。

以上の他に本裁判宣告には、当日は大隊長兵屋検査の日と記載されています。また、その翌日には中隊本部銃撃事件が発生していますが、何か当時の新琴似兵村には独特な雰囲気があったのでしょうか?



[152] 琴似屯田子孫会事務局長の永峰さん 投稿者:工藤公督 投稿日:2022/10/16(Sun) 16:22  

今、TV(HBC)で琴似神社と屯田兵子孫の特集を見てるのですが、琴似屯田兵子孫会の永峰さんはもしかして昔は福井の小学校の先生だった方でしょうか。だとしたら私は先生の教え子です。小学校1年と2年を担任してもらいました。違ったらごめんなさい(笑) でもそう信じてお懐かしゅうと申し上げておきます。

福井野小学校卒業生 工藤公督(こうすけ)


[151] 西和田兵村の稲光眞七郎の子孫です。 投稿者:工藤正廣 投稿日:2022/09/11(Sun) 19:59  

除籍を調べていましたら、僕の母方の先祖にあたる方が
福岡県より屯田兵として西和田に来ていることがわかり、
このサイトに辿り着きました。
当時からある和田地区のお墓の住所等ご教示頂けないでしょうか。
お墓参りなどさせて頂きたいです。
よろしくお願い申し上げます。


[150] 天童から滝川に入植した堀口克己氏 投稿者:堀口敬 投稿日:2022/03/27(Sun) 13:07  

天童から滝川に入植した堀口克己の従弟の堀口賢一郎の孫の堀口敬(札幌)です。時間があったので滝川市役所から戸籍謄本を入手しながら系図を作っています。現在、堀口克己さんの長男の堀口逸雄さん以降が分かりません。同じ年代で北大卒業後農業試験場にいた堀口逸雄さんがいますが、同一人物か不明です。どなたかご存じの方がいたら教えてもらえると助かります。



[149] Re:[112] 先祖が東和田の屯田兵だったのですが 投稿者:大野良弘 投稿日:2022/02/01(Tue) 19:57  

福井県文書館資料業書12 福井藩士履歴4の中に福井藩士の滝姓の名前と役職履歴が掲載されております。
滝勘兵衛、滝郡右衛門、滝六蔵、滝仁左衛門、滝勘蔵の名前がありますのでご参考としてください。
また、加賀藩の史料によりますと、加賀藩士で滝姓は、明治3年で12件あります。戸籍調べで先祖の名前がわかりましたらお知らせください。加賀藩なら詳しい由緒書が金沢市で保管されています。

> 父の出身地である根室市東和田について調べているうちにこのサイトに来ました。
> 東和田村の屯田兵名簿を見ると、瀧榮太郎さんというお名前が見えますがこの方が私の先祖(曽祖父?)なのかぜひ知りたいのですが、何か方法はございませんでしょうか?
> 残念ながら父は故人となっており、手掛かりは私の記憶にある父の本籍地と、父・祖父の名前、それから一族で金沢のほうから引っ越してきた話だけです・・・


[148] Re:[114] うちも東和田屯田兵 投稿者:大野良弘 投稿日:2022/02/01(Tue) 14:06  

北海道屯田倶楽部の掲示板への下記の投稿を本日見ました。

私は、北海道常呂郡訓子府町に住む大野良弘<61歳>と申します。

私の先祖も東和田村屯田兵の大野綏定で、お宅と同じように前住所の記載がなく、母親と妻が石川県金沢区だけしかわかりませんでしたが、和田村誌と屯田兵名簿から石川県からきた士族であることがわかり、加賀藩の侍帳を調べている中で、4世祖が加賀藩に提出した大野家の由緒書が金沢市に保管されていることがわかり、11世祖までの名前、役職、檀家寺まで判明しました。

百瀬さんの調べたい東和田村屯田兵の名前、その父親の名前と母親の名前、その母親の父親の名前<武士の名前だと思います>

を教えていただければ、私の調べた方法と同じであれば、先祖を探すことができますので、是非ご相談してください。

> 初めまして。私の高祖父が東和田の屯田兵の弟になります。明治6年生まれなので家族として渡ったようです。戸籍を遡った所、父親の名前、母親の前戸籍(石川県金沢区)はわかりましたが、他の者の東和田以前の戸籍の記載がありませんでした。それ以前はどのように調べたらわかりますか?また東和田の資料などはどちらかに行けば残っていますか?ご教示をよろしくお願いいたします。


[147] Re:[146] [129] [128] 野付牛屯田兵について 投稿者:輪廻 投稿日:2020/11/07(Sat) 22:38  

辻一朗 様
こんばんは、はじめまして。返信が遅くなり大変申し訳ありませんでした。
貴重な情報ありがとうございました。
誠に勝手ながらメールを送らせていただきましたのでご確認していただけますと幸いです。



> はじめまして。
> こちらで目にしたお名前に少し心当たりがあり、
> 書き込ませていただきます。
>
> 辻新平さんの奥さん(ミナさん?)の旧姓が本です。
> 本善吉さんはミナさん(?)の兄か弟ではないかと思われます。
> 馬継雅次郎さんの奥さん(マツさん?)の旧姓が妻沼です。
> 妻沼鷹治さんはマツさん(?)の兄か弟ではないかと思われます。
> 辻新平さんの長男(誠智さん)と馬継雅次郎さんの長女(ミトリさん)が結婚しています。
>
> 以上は、私が父(辻聡=誠智とミトリの長男で現在89歳です)から聞いたことです。
> こちらの趣旨から外れていましたら申し訳ありません。
> ご参考まで。
>


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