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Re:[89] 滝川屯田
投稿者:
編集室
投稿日:2016/06/05(Sun) 11:43
掲示板の設定に不具合があり、大変失礼いたしました。
お詫び申し上げます。
滝川は士族屯田兵の最後の入植地です。
その中でも山形県出身者は、一番最後に酒田港から小樽に上陸したそうです。
滝川は比較的土地に恵まれ、現在も盛況な果樹生産の基盤を築いたと聞いています。
その割にはなぜか離村者が多く、今も理由がはっきりしていないようです。
ひいおじい様も、北海道に一縷の望みを託されたのだと思われます。
士族屯田兵は子弟の学問にも力を注ぎ、滝川からは優れた人材が多く輩出されています。
現地には遺跡、博物館が整備されており、この春には史料が北海道の文化財に指定されました。
是非ご訪問されることをお勧めします。
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南滝川と北滝川の山形出身者について
投稿者:
滝川兵村
投稿日:2016/06/05(Sun) 11:39
今年99歳になる祖母の誕生会を行うにあたり、認知症になってしまった祖母の何か記憶のたよりになれば、と、祖母の先祖をたどっていました。
祖母の養父は昭和3年には札幌にいますが(古地図より)、もともとは北滝川の兵村に山形から入っているようです(堀口克己)。一方、祖母の実父の兄は同じく山形から南滝川の兵村にいたようで(前田角太郎)、実父(新寿郎)も一緒だったと思われます。
実母が早くに亡くなり、双子の姉もいたので、養父に預けられたようです。
前田角太郎さんは、直系ですので、戸籍をたどることができ、山形市香澄町横町南からきたようです。
滝川兵村の堀口克己さん、前田家についてわかることがあれば、(わかる資料でもあれば)教えていただけないでしょうか。こちらのホームページより、兵村地図で両家の場所確認はしました。ありがとうございます。
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滝川屯田
投稿者:
松野尾 萌
投稿日:2016/06/05(Sun) 09:59 <
URL
>
初めまして。たまたま屯田兵のことを調べているとこのサイトに行き当たりました。早速投稿しようと思いましたが、なぜか投稿受付出来ませんでした。半角は利用しておりませんし、文字数もそれほど多くないと思います。サーバーの問題かとも思い、私の手違いかも知れませんが、一応ご連絡申し上げます。投稿しようとしていた文は下記の通りです。
初めてお便り申し上げます。曽祖父は山形の家老の家柄だったそうですが、末子でもあり、生活も苦しかったのでしょう、戊辰戦争後、食うにも困り最後の北海道開拓団に応募して滝川に入植したと聞いております。私の祖父は、これも末子で、家族とともに滝川に移り住みました。いまは、さらに北にある西興部村の縁のある寺に葬られています。子供の時からの苦労で強くなったのか、その後東京に出て、帝大から弁護士に、そして経営の道に進み、最後は九州の地で一族に看取られて逝きました。
孫の私には昔の苦労話はせず、いつも明るい祖父でした。ひとつだけエピソードを聴いたのは、祖父の父に言われて酒屋に一合瓶を持って日本酒を買ってくるよう用づけられた事だけ。雪の中寒い中、渡された小銭を握りしめて、小さな瓶を落とさないよう長い距離を歩いて行ったのでしょう。
何もないところから開拓をして生活の礎を一から築き上げた時代。
豊かな社会に生まれ育った私の想像の及ぶところではありませんが、当時の人々の苦労と思います、絶望と希望を思いやると胸が締め付けられます。
インターネットの世界になり、驚く事に祖父の名前が屯田兵名簿に見つかり、しかも家の位置まで分かりました。とは言え、私はまだ滝川に行った事もなく、恐らく何もかも変わっているでしょうから当時の建物の面影もないでしょう。
そういう私も六十歳をまじかにしておりますので、なるべく早い機会に一度訪れたいものだと考えている次第です。
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屯田兵の子孫です
投稿者:
かりんた
投稿日:2016/01/21(Thu) 15:51
私は、明治25年、旭川の上兵村に入植した吉峰喜三郎の子孫にあたるものです。
とはいえ、残念ながら当時の事について詳しく知っていたであろう祖父母も既に亡くなり、今となっては、ご先祖様が屯田兵であったという事くらいしか分かりません。
そんな中、こちらのDBの中に喜三郎の名前を見つけることができ、さらに入植年月、出身郡まで判明して大変喜んでいます。
本当にありがとうございます。
これからも、出来る範囲で当時の事を調べてみたいと思っております。
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佐佐木俊郎氏について知りませんか?
投稿者:
編集室
投稿日:2016/01/04(Mon) 09:36
編集室です。本年もよろしくお願いいたします。
さっそくですが、ご協力をお願いします。
『新琴似兵村史』(新琴似兵村五十年記念会、1936年刊)の著者・編者の佐佐木俊郎氏について調べています。経歴、人物像などどのようなことでも結構ですので、何か情報がありましたら、教えて下さい。
氏の著作と見られる『北海道の話題』 (北方出版社、1937年刊)は入手しました。昭和12年の発刊当時の住所が「札幌市白石2-1」となっています。当時、札幌市南5西13にあった「郷土研究会」のメンバーと見られますが、この団体についても詳細が分かりません。
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Re:[85] [84] 滝川屯田移住記念碑について
投稿者:
河内 隆匡
投稿日:2015/07/26(Sun) 20:40 <
URL
>
堀口様、ありがとうございます。
たしか、滝川市史は実家に、まだ残っていると思われるので、調べてみようと思います。
まさか、デジタル化された滝川町史があったとは、考えておりませんでした。
本当にありがとうございます。
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Re:[84] 滝川屯田移住記念碑について
投稿者:
堀口 一寿
投稿日:2015/07/23(Thu) 14:20
> ただ、残念ながらいつ建立したのか日時がわかりません。
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに所蔵されている
滝川町史(昭和15年)の滝川町年代表に
大正14年に「滝川屯田移住記念碑建設」と掲載されています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048461
コマ番号(27/156)に移動すると、大正14年の下段の町史欄に書かれています。
なお、コマ番号(10/156)に「滝川屯田移住記念碑」の写真が掲載されています。
ただし、そのほかの詳しい説明はないようです。
他の方のブログなどから、場所は滝川神社の境内のようです。
滝川町史の後に発行された滝川市史(昭和37年、昭和56年)もありますが
こちらはデジタル資料になっておりませんので図書館等で調べるしかないようです。
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滝川屯田移住記念碑について
投稿者:
河内 隆匡
投稿日:2015/07/19(Sun) 03:31 <
URL
>
わからない事があり、ここに書かせていただきました。
つい最近ではあるのですが、祖母が亡くなり、写真などをデジタライズ処理等、整理していたところ、「滝川屯田移住記念碑」の建立時の写真が出てまいりました。
ただ、残念ながらいつ建立したのか日時がわかりません。
もし、ご存じの方がいらっしゃったら教えていただけないものかと思います。
一応、写真については、参照先から閲覧できるようにしておきますので、ご参照ください。
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黒田氏および石川浅太郎氏を除く田中氏他4名の特赦について
投稿者:
堀口 一寿
投稿日:2015/07/18(Sat) 01:42
黒田氏および石川浅太郎氏を除く田中氏他4名の特赦申請及び許可の文書がありました。
アジア歴史資料センター
石川浅太郎氏を除く田中氏他4名分
・「重禁錮囚5名特赦の件」(レファレンスコード:C07071195700)
・「特赦状伝達の義に付申進(重禁獄囚に対する)」(レファレンスコード:C10061300100)
黒田氏分
・「特赦の件」(レファレンスコード:C07071355900)
英照皇太后の御大喪恩赦
・御署名原本・明治三十年・勅令第七号・大喪ニ附キ減刑ノ件(レファレンスコード:A03020274900)
石川浅太郎氏については、時期が異なるのか現在のところ検索に引っかからず未見です。
上記文書より
・明治30年1月の英照皇太后の御大喪恩赦による勅令第七号「大喪ニ附キ減刑ノ件」(減刑令)で石川浅太郎氏を除く田中他4名は有期流刑十二年から重禁獄九年に、黒田氏は 無期流刑から有期流刑十五年に、減刑がおこなわれた。
(名前が黒塗りとなっているが、第一大隊第三中隊の番地から特定できる。)
・石川浅太郎氏を除く田中他4名は、明治30年4月28日付で特赦の許可が出ており、黒田氏は、約9ヵ月後の明治31年2月2日付で特赦の許可が出た。
・軍法会議の日付は、明治23年10月21日となっている。
ただし、石川浅太郎氏を除く田中他4名については、明治27年4月17日に「幽閉を免セラレ」とあるのは
減刑されても重禁獄であるのに、出獄し帰村したということでしょうか?
「新琴似百年史」では、P1087の「北区新川で酪農業を営む渡部正の話。」として、
・明治24年に、田中平蔵氏の父親に乞われて渡部氏の祖父が養子に入ったが、養子縁組まもなくして平蔵氏が許されて帰った。
・田中平蔵氏は、三年あまりの服役が許されたあとは大正5年8月3日まで新琴似に居住。
との記述があります。
また、この特赦に含まれていない石川浅太郎氏についても、
同じ「新琴似百年史」のP1086に石川雅夫氏の話として、
・刑期は十二年となってはいたが、すぐ許されて曽祖父と一緒に開拓に汗を流したようです。
との記述もあるので、帰村していたことは事実のようです。
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Re:[81] 函館新聞の記事
投稿者:
編集室
投稿日:2015/07/03(Fri) 10:12
判士らの名前は、司令部月報に載っていませんから、月報の記録は「判決文」の一部の写しでしょうか。日付の違いは、引き続き?ですね。
明治23年の職員名簿に照らすと、判士長の児玉徳太郎は、屯田兵司令部ではナンバー3と思われる参謀部参謀。以下判士には、司令部と第1大隊の幹部が並んでいるようです。理事、録事は、法官部の役人(出仕)としてこの二人の名前が載っています。
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函館新聞の記事
投稿者:
堀口 一寿
投稿日:2015/07/03(Fri) 00:30
こんにちは。
新琴似中隊本部襲撃事件について
道立文書館所属の函館新聞(マイクロ資料)の
明治23年10月29日と30日の2日にわたって
「重罪犯宣告文」として
黒田熊次郎、田中平蔵、中村音熊、石橋三四郎、光永久八、寺田長五郎、石川浅太郎各氏の判決文が掲載されていました。
判決文の文面はほとんど屯田兵司令部の月報と同じですが、一部異なるのは、
?被告については、所属・階級・氏名となっていたものが、
住所・族称・所属・階級・氏名・年齢となっている。
?日付が、明治23年10月21日ではなく、明治23年10月20日となっている。
?屯田兵軍法会議の判士、理事、録事が記載されている。
の3点です。
明治二十三年十月廿日
屯田兵軍法會議
判士長陸軍工兵大佐
児 玉 徳 太 郎
判士陸軍屯田兵大尉
吉 田 清 憲
判士陸軍屯田兵中尉
粟 飯 原 寛
判士陸軍屯田兵中尉
三 輪 光 儀
判士陸軍屯田兵少尉
福 江 重 隆
理事 水 嶋 純
録事 中 川 源 太 郎
見落としがあったかもしれませんが、
実行月の8月から12月までの函館新聞には事件に関する記事はこれのみでした。
新聞記事があることから、実行当時の情報操作はあったのかもしれませんが
最終的な隠蔽までは無かったようですね。
>そのうちオフラインで情報交換しませんか。
ありがとうございます。
まだまだ勉強不足ですが、よろしくお願いいたします。
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Re:[79] 追加情報です
投稿者:
編集室
投稿日:2015/06/25(Thu) 08:26
堀口 さま
出田氏は自身の記述から「明治24年免官」と伝えられてきましたが、これも修正が必要のようです。
『三澤日記』によると、富田氏は事件のあった明治23年に計8回、ほぼ月1回ペースで元新琴似中隊長の三澤氏の家を訪問しています。
他の来客に比べて長時間(昼メシをいただき3時、6時まで)滞在していることや、平日に兵村を離れていることなど?な行動です。
事件のあった8月の訪問はなく、免官後は11月24日となっています。
確かにナゾの多い人物に感じられます。
そのうちオフラインで情報交換しませんか。
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79
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追加情報です
投稿者:
堀口 一寿
投稿日:2015/06/25(Thu) 00:06
国立公文書館のアジア歴史資料センターから閲覧できる防衛省防衛研究所の
明治23年の「日報 屯田兵司令部(3)」(レファレンスコード:C09060113100)のP3〜P4に、
裁判判決(10/21)の2日後の10/23に襲撃事件の黒幕といわれている出田平馬氏が病気による免官となっていることが記載されています。
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真相に肉薄する貴重な史料ですね
投稿者:
編集室
投稿日:2015/06/12(Fri) 20:06
堀口寿一 さま
貴重な情報提供ありがとうございます。
軍事裁判関係の公文書が近々公開されると聞いていましたが、「陸軍省の月報」という形で防衛省から出てくるとは予想していませんでした。
日時はもとより、詳細な認定事実と共に、処罰者が計7名であったこと、170名の嘆願交渉に当たった中島氏が処罰されたこと、など新たな経緯が見えてきました。
この史料を元にした再検証を屯田倶楽部の例会などで進めたいと思います。
是非、ご参加下さい。
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Re:[76] [75] 三沢毅の「諸扣帳」について
投稿者:
堀口 一寿
投稿日:2015/06/12(Fri) 19:07
> 堀口寿一 さま
>
> 書き込み、また、セミナーのご感想をいただき、ありがとうございます。
>
> 「諸扣帳」につきましては、当時の兵村の暮らしぶりが詳細に綴られており大変貴重な史料です。ご家族より承諾を得ることができましたので、「屯田フロンティア双書」の第2弾として近く刊行する予定です。少部数ではありますが、主要な図書館にも置いていただく予定ですので、一般の方の目に触れる機会が広がると期待しております。
返信ありがとうございます。
新刊を期待しております。
> 事件発生日に関する史料はこれ以外に、今のところ皆無の状態です。
> 10月8日説についても、その一次史料・原点は不明とされているようです。
先日のセミナーから調べたところ、
国立公文書館のアジア歴史資料センターから閲覧できる防衛省防衛研究所の
明治23年の「月報 屯田兵司令部」(レファレンスコード:C09060118500)のP11〜P26に、
襲撃事件の裁判宣告に8/18の経緯が記載されています。
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Re:[75] 三沢毅の「諸扣帳」について
投稿者:
編集室
投稿日:2015/06/12(Fri) 18:17
堀口寿一 さま
書き込み、また、セミナーのご感想をいただき、ありがとうございます。
「諸扣帳」につきましては、当時の兵村の暮らしぶりが詳細に綴られており大変貴重な史料です。ご家族より承諾を得ることができましたので、「屯田フロンティア双書」の第2弾として近く刊行する予定です。少部数ではありますが、主要な図書館にも置いていただく予定ですので、一般の方の目に触れる機会が広がると期待しております。
事件発生日に関する史料はこれ以外に、今のところ皆無の状態です。
10月8日説についても、その一次史料・原点は不明とされているようです。
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三沢毅の「諸扣帳」について
投稿者:
堀口 一寿
投稿日:2015/06/12(Fri) 16:24
6/7の公開セミナー「新琴似中隊本部襲撃事件の真相に迫る」を拝聴しました。
末裔の方の「屯田兵の家族の不満」という指摘は、他の兵村にも大なり小なりの不満や、訓練・演習に忙しい屯田兵にかわり実際の開墾を担っていたという自負心というものが、各兵村・町村史などの回顧録に残っていたりしていることから、非常に興味深いものがありました。
ところで、実行日の新説としていた8/18とは、原本の三澤毅の「諸扣帳」以外には参考文献は無いのでしょうか?
屯田第41号に掲載された論文では、「諸扣帳」は個人所有のものとのことですので、なかなか目にする機会はないようですね。
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Re:[73] 新琴似篠路
投稿者:
編集室
投稿日:2015/05/27(Wed) 08:48
しんのろに 様
書き込み、ありがとうございます。
倶楽部会員には新琴似、篠路の子孫も多いので、何か参考情報があるかも知れません。声掛けしてみます。
来る6月7日の公開セミナーは、新琴似兵村が舞台で、篠路屯田兵も関係人物として登場する予定です。是非ご参加ください。
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73
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新琴似篠路
投稿者:
しんのろに
投稿日:2015/05/27(Wed) 01:31
初めまして。
新琴似兵村と篠路兵村の五代目子孫に当たります。女系の子孫のためか身内に入植時の状況に詳しい者が少ない状況です。除籍簿や兵籍簿・お墓等から分かることは調べたのですが、
入植の経緯や、出身地では何をしていたのか等、ご存知の方がいらっしゃいましたら是非お教え下さい。
直接には下記に番号を記した3名が私のご先祖ですが、「※」で示した屯田兵は、結婚により血縁関係となりご先祖を同じくする方なので記載させていただきました。
メールでも構いませんので是非宜しくお願い致します。
新琴似兵村
?谷口考次(佐賀県)
?大我与一郎(佐賀県)
※池崎吉之助・池崎金之進(鹿児島)
妹が大我与一郎と結婚のため
篠路兵村
?岩佐一太郎(徳島県)
※岩佐幸吉(徳島県)
除籍簿から岩佐一太郎の従兄弟にあたり徳島での住所がかなり近いことや、家紋も同じで同族と見られるため
※岩佐源太郎(徳島県)
姉が新琴似の谷口考次に嫁いでいるため
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Re:[71] 庄内藩について
投稿者:
編集室
投稿日:2015/05/15(Fri) 13:24
山鼻屯田兵の子孫 さま
書き込みありがとうございます。
北海道屯田倶楽部発行の「屯田兵名簿」によると、山鼻には9名の庄内藩出身者のお名前が掲載されています。
具体的な出身地についての記述は、残念ながらありません。
1996年に財団法人・山鼻記念碑保存資産が刊行した「山鼻屯田兵」には、各屯田兵の出自、子孫の動静などが詳述されています。
これを見ますと、庄内出身の9名のお名前があり、うち3名については子孫の消息が記載されています(その他6名も含めて藩内の出身地の記述はなし)。
ご先祖のお名前をお知らせいただければ、ご案内可能です。
また、上記財団法人には参考になる情報があるかも知れませんので、問い合わせてみてはいかがでしょうか。