「新琴似中隊本部襲撃事件」の版間の差分

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[[新琴似中隊本部]]襲撃事件の動機は不明確だが、当時、琴似中隊(第一大隊第一中隊)の幹部で、事件後に新琴似中隊長付となった[[富田貞賢]]の回顧談などから、[[給与米]]の一部の天引き・積立をめぐる屯田兵の不満が原因とされる。このため事件は「[[積穀騒動]]」とも呼ばれ、富田は「約束なしの二割負担」に対する不満を挙げ、『[[新琴似兵村記録]]』では「屯田兵の生活の困窮」が背景にあったとされている。
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[[新琴似中隊本部]]襲撃事件の動機は不明確だが、当時、琴似中隊(第一大隊第一中隊)の幹部で、事件後に新琴似中隊長付となった[[富田貞賢]]の回顧談などから、[[給与米]]の一部の天引き・積立をめぐる屯田兵の不満が原因とされる。このため事件は「[[積穀騒動]]」や「[[積穀事件]]」とも呼ばれ、富田は「約束なしの二割負担」に対する不満を挙げ、『[[新琴似兵村記録]]』では「屯田兵の生活の困窮」が背景にあったとされている。
 
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2014年5月28日 (水) 08:56時点における版

屯田兵の家(静岡市羽鳥)

新琴似中隊本部襲撃事件とは、新琴似屯田兵が入植して3年後の明治23(1890)年、第一大隊第二中隊本部(現・札幌市北区新琴似8条3丁目)の官舎にいた当時の中隊長・安東貞一郎大尉が銃撃された事件で、6人の新琴似屯田兵が軍法会議で処罰され、安東中隊長は重謹慎処分とされた。公式の記録がほとんど残されておらず、銃撃の動機や事件発生の日時も明確となっていない。
積穀事件積穀騒動とも呼ばれる。


目次

事件発生

新琴似中隊本部襲撃事件の発生は、奥山亮著『新考北海道史年表』(昭和45年・みやま書房)に「明治23(1890)年10月8日」の夜と記載されるなどこの日が通説とされてきた。しかし、これを裏付ける史料は見当たらず、平成19(2007)年に公開された初代中隊長・三澤毅大尉の「三澤日誌」の記述から、「8月18日」であった可能性が高まった。(『屯田』第41号)
6人の屯田兵が中隊本部西側の中隊長官舎を取り囲むと、異常な気配に気付いた安東中隊長は、家族を腹ばいにさせると、抜剣して身構えた。数発の銃声を聞いた毛利秀次小隊長が中隊本部前で非常ラッパを吹き鳴らし、全員招集を命じた。兵員が集合するころには一味は姿を消し、威嚇発砲だったためか安東中隊長や家族らにけがはなかった。


軍法会議

銃撃した6人の屯田兵は、いったん身を隠した後、兵服に着替えて中隊本部前に集まり平静を装ったが、大隊長らの厳しい尋問を受け、10月21日に開かれた屯田兵軍法会議にかけられた。判決では、首謀者とみなされた黒田熊次郎(鹿児島県出身)が無期懲役、他の5人は7年から1か月の禁固刑とされた。

黒田熊次郎は、当時総理大臣で開拓長官を務めたこともある黒田清隆の従兄弟ともいわれ、これが極刑を免れた要因とする見方もあった。また、6人の中でただ一人独身だったことから「一切の責任を背負った」と見る関係者もいるが、軍法会議の記録などがほとんど残されておらず、事件の動機とともに真相は歴史の闇に閉ざされている。


動機と背景

新琴似中隊本部襲撃事件の動機は不明確だが、当時、琴似中隊(第一大隊第一中隊)の幹部で、事件後に新琴似中隊長付となった富田貞賢の回顧談などから、給与米の一部の天引き・積立をめぐる屯田兵の不満が原因とされる。このため事件は「積穀騒動」や「積穀事件」とも呼ばれ、富田は「約束なしの二割負担」に対する不満を挙げ、『新琴似兵村記録』では「屯田兵の生活の困窮」が背景にあったとされている。

屯田兵に対する給与米の強制的な積立は、兵の不満を買う一方で、北海道における民間金融機関の先駆けとも言える「屯田銀行」の設立にもつながった。事件の翌年の明治24(1891)年6月設立の「屯田銀行」は、13個中隊の積立金13万円を資本に、その資金運用によって安全な利殖を目指すもので、「北海道商業銀行」と改称(明治33年1月)し、小樽銀行と合併しての「北海道銀行」(明治39年5月)を経て、戦時統合による北海道拓殖銀行(昭和19年)へとつながっていった。


参考

  • 新琴似兵村記録
  • 『新琴似兵村史』(1936年、佐佐木俊郎・新琴似兵村50年記念会)
  • 新琴似百年史』(1986年、新琴似開基百年記念協賛会)
  • 『さっぽろの昔話・明治編上』 (1978年、河野常吉編・みやま書房) 
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