「篠路兵村」の版間の差分
提供: tondenwiki
(ページの作成:「篠路兵村は、(この項は編集途中です)<br> <br> == 年表 == 篠路兵村史。<br> *明治21(1888)年 兵屋建設に着手(9月)、[[琴...」) |
(→募集・渡道) |
||
73行: | 73行: | ||
篠路屯田兵の募集は、明治22(1889)年5月に徴募官一行が和歌山県から入って、四国、九州へと巡回して行われた。この前後の4月から6月にかけて、各県の新聞が徴募の告知や志願状況、合格者発表などを細かに報じた。 | 篠路屯田兵の募集は、明治22(1889)年5月に徴募官一行が和歌山県から入って、四国、九州へと巡回して行われた。この前後の4月から6月にかけて、各県の新聞が徴募の告知や志願状況、合格者発表などを細かに報じた。 | ||
<br> | <br> | ||
− | 篠路屯田兵220戸家族を合わせて1 | + | 篠路屯田兵220戸家族を合わせて1,056人の輸送には、英国製で共同運輸(現・日本郵船)を借り上げた貨客鉄船「[[相模丸]]」(1,926トン)が使用され、明治22(1889)年7月14日、小樽港に着岸した。手宮から琴似までは幌内鉄道の炭車に乗って移動し、篠路兵村までは徒歩で移動した。 |
<br> | <br> | ||
<br> | <br> |
2015年5月4日 (月) 21:00時点における版
篠路兵村は、(この項は編集途中です)
目次 |
年表
篠路兵村史。
- 明治21(1888)年 兵屋建設に着手(9月)、琴似兵村に至る琴似新道(茨戸街道)と札幌に至る新琴似道路が完成
- 明治22(1889)年 屯田兵220戸1,056人が入植移住(5月20日)、第2陣向け兵屋74戸建築(10月)、私立小学校を開設(12月3日)
- 明治21(1888)年 岩内へ春季行軍(4月)、屯田兵第2陣74戸が入植移住(7月)
- 明治24(1891)年 私立海南尋常高等小学校を設置(4月)
- 明治25(1892)年 予備役に編入(7月)、開村記念祭を開催(7月15日)、小村亀十郎が井戸水利用し稲作に成功
- 明治26(1893)年 島松で春季演習(3月)、篠路兵村青年会が競馬会を設立(7月)
- 明治27(1894)年 私立海南尋常高等小学校が公立海南尋常小学校となる
- 明治28(1895)年 日清戦争に動員令下る(3月)、復員(6月)
- 明治29(1896)年 後備役編入により中隊本部引き上げ
- 明治31(1898)年 洪水により兵村の3分の2が水没(9月)、収穫ゼロのため離村が相次ぐきっかけとなる
- 明治32(1899)年 水害罹災兵村に指定される、篠路村戸長役場が設置され兵村も傘下に入る(4月)
- 明治34(1901)年 篠路屯田青年会が発足
- 明治37(1904)年 水害(7月)、日露戦争に出征(8月)
- 明治38(1905)年 篠路兵村の人口が72戸555人と入植時から半減(4月)、日露戦争から復員し凱旋祝賀会開催(10月)
- 明治39(1906)年 二級町村制施行により篠路村は琴似村に移管(4月)
- 明治40(1907)年 公有財産を部落会に引き継ぎ、兵村のものとし管理を琴似村長とする(4月)
- 明治42(1909)年 忠魂碑を建立(7月)
- 明治43(1910)年 江南神社が村社となる
- 大正 2(1913)年 篠路兵村土功組合に認可(8月)
- 大正 4(1915)年 篠路兵村潅漑溝工事に着手(翌年6月完成)
- 昭和 3(1928)年 篠路兵村開基40年記念式を開催、開拓記念碑を建立(7月)
- 昭和 7(1932)年 石狩川の氾濫で冠水被害(9月)
- 昭和12(1937)年 篠路兵村銃後講演会を設立(8月)
- 昭和16(1941)年 篠路兵村部落連合会発足、大凶作
- 昭和27(1942)年 屯田遺族講演会が発足(8月)
- 昭和30(1955)年 琴似町が札幌市と合併、札幌市屯田町となる
出身地と入植
圏域 | 府県 | 明治20年 |
---|---|---|
九州 | 熊本 | 46 |
福岡 | 13 | |
中国 | 山口 | 43 |
四国 | 徳島 | 29 |
北陸 | 福井 | 20 |
石川 | 32 | |
近畿 | 和歌山 | 37 |
計 | 220 |
出身地
篠路屯田兵は、明治22(1889)年入地の220人で、大半が西日本出身者だった。府県別では、熊本県46人、山口県43人、和歌山県37人、石川県32人、徳島県29人、福井県20人、福岡県13人となっている。
募集・渡道
篠路屯田兵の募集は、明治22(1889)年5月に徴募官一行が和歌山県から入って、四国、九州へと巡回して行われた。この前後の4月から6月にかけて、各県の新聞が徴募の告知や志願状況、合格者発表などを細かに報じた。
篠路屯田兵220戸家族を合わせて1,056人の輸送には、英国製で共同運輸(現・日本郵船)を借り上げた貨客鉄船「相模丸」(1,926トン)が使用され、明治22(1889)年7月14日、小樽港に着岸した。手宮から琴似までは幌内鉄道の炭車に乗って移動し、篠路兵村までは徒歩で移動した。
軍務と出征
軍務
日清戦争
明治28(1895)年3月、日清戦争に動員命令が下り出征、東京で待機中に講和が成立し6月に復員した。翌年4月から篠路屯田兵は後備役に編入された。
日露戦争
明治37(1904)年8月、新琴似屯田兵81人が日露戦争に出征した。後備歩兵第28聯隊、第三軍に編入され、12月には二〇三高地での激戦に加わった。奉天会戦など転戦を続け、翌年11月19日復員した。戦死者は11人に上った。
開墾と農業
給与地
作付
潅漑・治水
公有財産と自治活動
公有財産
自治とまちの変遷
主な人物
歴代の中隊長
屯田兵第一大隊第四中隊の中隊長は、次の2代にわたった。
屯田兵・中隊幹部
その他
屯田兵名簿
出来事・エピソード
証言録
伝統文化・芸能
史跡・博物館
史料・論文等
- 『篠路兵村の礎』 (昭和19年)
- 『屯田部落七十年史』 (昭和34年)
- 『屯田九十年史』 (昭和53年)
- 『屯田百年史』 (平成元年)
子孫会・顕彰団体等