「鈴木勝二」の版間の差分
提供: tondenwiki
(→証言内容) |
|||
(3人の利用者による、間の6版が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
== プロフィール == | == プロフィール == | ||
− | : | + | :鈴木 勝二(明治18年7月入地 鹿児島県出身 兵屋番号253番・家族) |
− | + | ||
== 出典元 == | == 出典元 == | ||
10行: | 9行: | ||
== 要旨 == | == 要旨 == | ||
− | + | #[[小樽]]から[[江別]]へ〜珍しかった陸蒸気([[汽車]])<br> | |
− | + | #[[兵屋]]に到着〜鬱蒼とした森を見て姉は泣き出した<br> | |
− | + | #初仕事は道路造り〜綿のように疲れ切った<br> | |
− | + | #ひどい寒さ〜髪の毛が針のように<br> | |
− | + | #月に1回[[中隊長]]が[[検閲]]<br> | |
− | + | #生活難〜仮病で[[兵役免除]]、[[逃亡]]すれば後釜に<br> | |
− | [[Category:入地|小樽から]][[Category:逃亡|逃亡 | + | [[Category:入地|小樽から]][[Category:逃亡|逃亡]] |
== 証言内容 == | == 証言内容 == | ||
− | + | #私は十二歳の時鹿児島縣より移住したものであるが、同志と一緒に[[和歌の浦丸]]に乗船したが、方々に立ち寄って[[屯田兵]]移住者を乗せた為手間どって出帆後十日目に[[小樽]]に着いた。着いて非常に珍しく感じたのは[[陸蒸気]](汽車)であった。<br> | |
− | + | #小樽で[[兵屋番号]]の[[抽籤]]をして、自分等は宿舎の都合上札幌まで来て宿泊した。當時の[[汽車]]は牽引力が足らなかったので、二列車位で輸送したものであったろう。翌日江別町に着いたが、駅は現在よりももっと上手にあって小さい停車場であった。停車場には先に移住した十二戸や十三戸の屯田兵の幹部が出迎えて呉れた。案内されて愈々自分の住むべき兵屋に行ったが、道路から二十五間奥の家が見えぬ位で、玄関前から幾抱の大木で、それに葡萄、こくわなどの蔓が一ぱいからまってゐた。余りに様子が変ってゐるので姉などは大馨で泣出したのも無理からぬ事であった。<br> | |
− | + | #落付いてから一週間は炊出しがあった。それも桶の様なお鉢をかかへて二番丁太田様の二軒先まで受取りに行くので、今でこそ何でもないが、日に三度宛とりに行くのは中々辛い事であった。其晩は着の身着のままのゴロ寝をし、翌日[[給輿品]]を受取った。鍋などは金気が出て直ぐ使用が出来ない。米は最初の一ト月は白米で貰ったが、其後は玄米で下ったので、皆手搗をやった。最初の仕事は道路を作ることであった。當時の戸主は十七、十八歳位の青年が多かったが、終日[[教練]]をやりそれが終ってから道路をつくる。だから身軆が綿のように疲労しきって、便所に行って屈むことさへ出来ぬ有様だった。<br> | |
− | + | #一番心掛けたのは薪であった。梁の中までも積み上げた。寒さも非常に強かったもので、[[共同風呂]]から帰ってくる途中、さげた手拭が棒になったり、髪の毛が針の様に突立ったりした。<br> | |
− | + | #軍務も中々厳格で午前四時[[起床ラッパ]]の合図で飛び起き六時就業、其間に[[点呼]]が有るが、[[分隊長]]は兵員のみならず家族までも点検し、一々その動静を[[中隊長]]に報告した。一週に一回は[[兵屋]]の検査が有った。これは[[小隊長]]が行ふので、家族は[[戸主]]を先頭にして家の前に並び、[[武器]]は青毛布、[[農具]]は莚の上に並べ置き、布團家具什器の果まで整頓して[[検閲]]を受けた。一ヵ月に一回中隊長の検閲が有った。<br> | |
− | + | #中隊長は兵員の稼檣といふ事に就いては随分と頭を悩ましたもので、[[養蚕]]家畜飼養果樹栽培等は言はずもがな、或時は中隊長自ら請負って、鐵道用枕木を切らせたり、線路布設の工夫に従事させたりしたのであった。<br> | |
− | + | #斯様に教練作業と相當に辛かったのと、一方[[生活難]]に脅かされるので、中には仮病をつかって[[兵役]]の免除を圖ったり、甚へ兼ねて[[逃亡]]したりするものも出来た。従ってその後釜に据へられるものがだんだんと出来て来たが、自分もその一人だ。 | |
+ | |||
+ | [[Category:証言|すずき]] |
2013年9月8日 (日) 06:26時点における最新版
目次 |
[編集] プロフィール
- 鈴木 勝二(明治18年7月入地 鹿児島県出身 兵屋番号253番・家族)
[編集] 出典元
- 『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)
[編集] 要旨
- 小樽から江別へ〜珍しかった陸蒸気(汽車)
- 兵屋に到着〜鬱蒼とした森を見て姉は泣き出した
- 初仕事は道路造り〜綿のように疲れ切った
- ひどい寒さ〜髪の毛が針のように
- 月に1回中隊長が検閲
- 生活難〜仮病で兵役免除、逃亡すれば後釜に
[編集] 証言内容
- 私は十二歳の時鹿児島縣より移住したものであるが、同志と一緒に和歌の浦丸に乗船したが、方々に立ち寄って屯田兵移住者を乗せた為手間どって出帆後十日目に小樽に着いた。着いて非常に珍しく感じたのは陸蒸気(汽車)であった。
- 小樽で兵屋番号の抽籤をして、自分等は宿舎の都合上札幌まで来て宿泊した。當時の汽車は牽引力が足らなかったので、二列車位で輸送したものであったろう。翌日江別町に着いたが、駅は現在よりももっと上手にあって小さい停車場であった。停車場には先に移住した十二戸や十三戸の屯田兵の幹部が出迎えて呉れた。案内されて愈々自分の住むべき兵屋に行ったが、道路から二十五間奥の家が見えぬ位で、玄関前から幾抱の大木で、それに葡萄、こくわなどの蔓が一ぱいからまってゐた。余りに様子が変ってゐるので姉などは大馨で泣出したのも無理からぬ事であった。
- 落付いてから一週間は炊出しがあった。それも桶の様なお鉢をかかへて二番丁太田様の二軒先まで受取りに行くので、今でこそ何でもないが、日に三度宛とりに行くのは中々辛い事であった。其晩は着の身着のままのゴロ寝をし、翌日給輿品を受取った。鍋などは金気が出て直ぐ使用が出来ない。米は最初の一ト月は白米で貰ったが、其後は玄米で下ったので、皆手搗をやった。最初の仕事は道路を作ることであった。當時の戸主は十七、十八歳位の青年が多かったが、終日教練をやりそれが終ってから道路をつくる。だから身軆が綿のように疲労しきって、便所に行って屈むことさへ出来ぬ有様だった。
- 一番心掛けたのは薪であった。梁の中までも積み上げた。寒さも非常に強かったもので、共同風呂から帰ってくる途中、さげた手拭が棒になったり、髪の毛が針の様に突立ったりした。
- 軍務も中々厳格で午前四時起床ラッパの合図で飛び起き六時就業、其間に点呼が有るが、分隊長は兵員のみならず家族までも点検し、一々その動静を中隊長に報告した。一週に一回は兵屋の検査が有った。これは小隊長が行ふので、家族は戸主を先頭にして家の前に並び、武器は青毛布、農具は莚の上に並べ置き、布團家具什器の果まで整頓して検閲を受けた。一ヵ月に一回中隊長の検閲が有った。
- 中隊長は兵員の稼檣といふ事に就いては随分と頭を悩ましたもので、養蚕家畜飼養果樹栽培等は言はずもがな、或時は中隊長自ら請負って、鐵道用枕木を切らせたり、線路布設の工夫に従事させたりしたのであった。
- 斯様に教練作業と相當に辛かったのと、一方生活難に脅かされるので、中には仮病をつかって兵役の免除を圖ったり、甚へ兼ねて逃亡したりするものも出来た。従ってその後釜に据へられるものがだんだんと出来て来たが、自分もその一人だ。