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== 経歴 ==
 
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*1804年  8月31日 米国マサチューセッツ州で誕生
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*1848年  8月31日 合衆国農業会副会長に就任
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*1861〜66年  南北戦争で北軍に従軍、准将にまで昇進
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*1867年  合衆国農務省第二代長官(農務局長)に就任
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*1871(明治4)年  4月 ワシントンの農務省で日本国代理公使・森有礼と開拓次官・[[黒田清隆]]と会見、北海道[[開拓顧問]]・御雇教師頭取就任を受諾
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           6月 農務局長を辞任
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           8月 トーマス・[[アンチセル]]、A.G.[[ワーフィールド]]、スチュワート・[[エルドリッジ]]らを伴い来日、横浜に到着
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           9月 東京に[[官園]]設置し北海道に導入する作物の試作など開始、七重、札幌にも官園を開設
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              [[アンチセル]]と[[ワーフィールド]]を北海道に派遣
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*1872(明治5)年  1月 北海道開拓のための予備報告書(第1次ケプロン報文)を提出
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           3月 農科大学設置の進言に基づき東京に仮学校開設
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           4月 牛8頭、馬5頭、羊9頭、種子、蒸気機関、製材・製粉機、農機具など米国から輸入、北海道へ送る
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           6月〜11月 第1回北海道巡察(函館、室蘭、札幌、[[小樽内]]など)
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           7月 北海道視察報告書(第2次ケプロン報文)を提出
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*1873(明治6)年  6月〜9月 第2回北海道巡察(ベンジャミン・スミス・[[ライマン]]を伴って石狩川・豊平川の流域調査、開拓使農園・[[萱沼炭鉱]]視察)
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*1874(明治7)年  5月〜8月 第3回北海道視察(新室蘭、琴似と札幌周辺の[[屯田兵]]入植予定地・候補地を調査、[[ライマン]]とともに石狩川源流部の鉱物調査、日高沿岸部の牧畜・漁業などの開拓状況を調査) 
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*1875(明治8)年  3月 最終報告書「ホラシ・ケプロン報文」を提出、[[明治天皇]]より感謝と送別の言葉を受ける
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           5月 [[マンロー]]から「蝦夷地金山報文」を受ける、契約を延期して「報文要略」をまとめ[[開拓使]]に提出後、帰国のため横浜を出港
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*1876(明治9)年  8月 ケプロンの進言に基づき[[札幌農学校]]開設
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*1877(明治10)年  [[西南戦争]]に際し[[黒田清隆]]の要請で銃砲弾薬の調達に協力
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*1884(明治17)年  1月 勲二等旭日章を受章
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*1885(明治18)年  2月22日 ワシントンで死去、80歳
  
 
== 業績・足跡 ==
 
== 業績・足跡 ==
  
 英国から移住した医師の家に生まれ、[[南北戦争]]に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国の第二代農務局長となった。1871(明治4)年、渡米中の開拓次官・[[黒田清隆]]と出会い、黒田の強い要請を受けて開拓史顧問としての来日を決意し、職を辞した。同年7月7日、工鉱業技師[[アンチセル]]、測量土木技師[[ワーフィールド]]、秘書[[エルドリッチ]]を伴って横浜入り。[[お雇い外国人]](外国人技術者)らを指揮して北海道開拓に関する意見を[[開拓使長官]]に進言するとともに、事業の推進にも関わった。<br>
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 英国から移住した医師の家に生まれ、[[南北戦争]]に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国の第二代農務局長となった。1871(明治4)年、渡米中の開拓次官・[[黒田清隆]]と出会い、黒田の強い要請を受けて開拓史顧問としての来日を決意し、職を辞した。同年7月7日、工鉱業技師[[アンチセル]]、測量土木技師[[ワーフィールド]]、秘書[[エルドリッジ]]を伴って横浜入り。[[お雇い外国人]](外国人技術者)らを指揮して北海道開拓に関する意見を[[開拓使長官]]に進言するとともに、事業の推進にも関わった。<br>
  
 
 [[アンチセル]]、[[ワーフィールド]]の予備調査に続きケプロン自身も、三回にわたって北海道を視察調査し、北海道開拓の指針を『[[ケプロン報文]]』にまとめた。開拓構想は、農業牧畜・水産、鉱工業の振興から道路や鉄道整備、教育など多岐にまたがり、精緻な調査に基づいていることや欧米の先進的な技術の活用を目指している点に特徴がある。特に、札幌を首都とすることや、[[札幌農学校]]の創設につながる農科大学の設置、米国式の農畜産技術の導入などの提言は、現在につながる北海道開拓の基盤となった。<br>
 
 [[アンチセル]]、[[ワーフィールド]]の予備調査に続きケプロン自身も、三回にわたって北海道を視察調査し、北海道開拓の指針を『[[ケプロン報文]]』にまとめた。開拓構想は、農業牧畜・水産、鉱工業の振興から道路や鉄道整備、教育など多岐にまたがり、精緻な調査に基づいていることや欧米の先進的な技術の活用を目指している点に特徴がある。特に、札幌を首都とすることや、[[札幌農学校]]の創設につながる農科大学の設置、米国式の農畜産技術の導入などの提言は、現在につながる北海道開拓の基盤となった。<br>
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 ケプロンを招聘した開拓次官・[[黒田清隆]]は1873(明治6)年、[[屯田兵制度]]の創設を建議し、[[開拓長官]]に就任した翌年の1875(明治8)年には[[琴似]]に最初の[[屯田兵]]を入植させるが、この間、ケプロンは[[屯田兵]]による殖民政策に対してもさまざまな助言をした。<br>
 
 ケプロンを招聘した開拓次官・[[黒田清隆]]は1873(明治6)年、[[屯田兵制度]]の創設を建議し、[[開拓長官]]に就任した翌年の1875(明治8)年には[[琴似]]に最初の[[屯田兵]]を入植させるが、この間、ケプロンは[[屯田兵]]による殖民政策に対してもさまざまな助言をした。<br>
 1874(明治7)年5月から8月に及んだ第2次の北海道視察では、室蘭、札幌、小樽の入植候補地を調査した。小樽(現・高島、朝里の2個所)については用材と日常使う水の確保の面から、また、石狩川河口に近い予定地(現・石狩市の花畔近辺)については強い浜風の影響を開墾の障害として挙げた。<br>
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 1874(明治7)年5月から8月に及んだ第2次の北海道視察では、室蘭、札幌、小樽周辺の入植候補地を調査した。小樽(現・高島、朝里の2個所)については用材と日常使う水の確保の面から、また、石狩川河口に近い予定地(註)については強い浜風の影響を開墾の障害として挙げた。<br>
 
 [[琴似兵村]]の[[兵屋]]建設に当たっては、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる洋式の炉の採用など寒冷地仕様とすることを提言した。しかし、実際に作られた兵屋は、一部土壁で囲炉裏付きの純和風のものだったことから「薄紙様ノ家屋」と評した。後に[[江別兵村]]で米国式やロシア式の耐寒構造が一部採用されたが、費用がかかり過ぎるために普及せず、ケプロンの進言は生かされることはなかった。<br>
 
 [[琴似兵村]]の[[兵屋]]建設に当たっては、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる洋式の炉の採用など寒冷地仕様とすることを提言した。しかし、実際に作られた兵屋は、一部土壁で囲炉裏付きの純和風のものだったことから「薄紙様ノ家屋」と評した。後に[[江別兵村]]で米国式やロシア式の耐寒構造が一部採用されたが、費用がかかり過ぎるために普及せず、ケプロンの進言は生かされることはなかった。<br>
 
 農業については、寒冷地のために稲作は不適とし、麦類の栽培や牧畜の振興を柱とした米国式の営農を推奨した。禁止された稲作は、後に屯田兵によって普及のきっかけをつかむことになるが、プラウなどの農機具の導入や本州に比べて大規模な営農形態など、ケプロンの進言は北海道農業の基盤づくりにつながった面も多い。<br>
 
 農業については、寒冷地のために稲作は不適とし、麦類の栽培や牧畜の振興を柱とした米国式の営農を推奨した。禁止された稲作は、後に屯田兵によって普及のきっかけをつかむことになるが、プラウなどの農機具の導入や本州に比べて大規模な営農形態など、ケプロンの進言は北海道農業の基盤づくりにつながった面も多い。<br>
 
 屯田兵の兵器の装備についても、ケプロンは[[黒田清隆]]に助言し、離任・帰国後も外国からの小銃の輸入に便宜をはかった。<br>
 
 屯田兵の兵器の装備についても、ケプロンは[[黒田清隆]]に助言し、離任・帰国後も外国からの小銃の輸入に便宜をはかった。<br>
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註:『ケプロン日誌』には地名を「ポンナリ」、また黒田清隆に提出した『ケプロン報文』では銭函近傍で石狩との間の「パンナリ」とそれぞれ表記してある。現在の石狩市花畔(ばんなぐろ)とする説があるが、銭函と小樽内川(現・新川)の間の「ポンナイ」とする見方もある。<br>
  
 
== 黒田清隆とケプロン ==
 
== 黒田清隆とケプロン ==
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 [[屯田兵]]が征討軍として[[西南戦争]]に出征した1877(明治10)年には、[[征討参軍]]も務めた(途中辞任)[[黒田清隆]]が、ワシントンDCに帰国していたケプロンに再三電報を送り、大量の[[レミントン銃]]と弾薬の調達について協力を要請した。顧問の役を降り、まったくの私人となっていたケプロンとの親密な関係がうかがえる。<br>
 
 [[屯田兵]]が征討軍として[[西南戦争]]に出征した1877(明治10)年には、[[征討参軍]]も務めた(途中辞任)[[黒田清隆]]が、ワシントンDCに帰国していたケプロンに再三電報を送り、大量の[[レミントン銃]]と弾薬の調達について協力を要請した。顧問の役を降り、まったくの私人となっていたケプロンとの親密な関係がうかがえる。<br>
  
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 ケプロンの訃報に接した黒田清隆は、マーガレット夫人に宛てて次のような弔辞を送った。<br>
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 「令夫の訃を聞く。実に驚悵に堪えず、嗚呼余茲に一友を失へり。余は別後歳更り地隔つと雖も、悲嘆自ら措く能はず、況や卿の哀悼をや。真に令夫の北海道に在りしや至情人を動かし励精職を尽くし、其功永く事業に存せり。茲に一辞を呈し、聊か哀悼を表す」(茅原華山文集より)<br>
  
 
== 人物評、エピソード ==
 
== 人物評、エピソード ==
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== 伝記 ==
 
== 伝記 ==
 
*『北海道のいしずえ四人 黒田・ケプロン・岩村・永山』井黒弥太郎・片山敬次、北海道開拓功労者顕彰像建立期成会 1967年
 
*『北海道のいしずえ四人 黒田・ケプロン・岩村・永山』井黒弥太郎・片山敬次、北海道開拓功労者顕彰像建立期成会 1967年
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*『北海道の歴史(ケプロン将軍)』高倉新一郎、講談社北海道支社 1949年
 
*『ホーレス・ケプロン将軍』西島照男訳、北海道出版企画センター 1986年
 
*『ホーレス・ケプロン将軍』西島照男訳、北海道出版企画センター 1986年
 
*『ケプロンの教えと現術生徒』富士田金輔、北海道出版企画センター 2006年
 
*『ケプロンの教えと現術生徒』富士田金輔、北海道出版企画センター 2006年

2014年8月23日 (土) 19:21時点における最新版

ホーレス・ケプロン

ホーレス・ケプロン Horace Capron(1804.8.31〜1885.2.22)
 ホーレス・ケプロンは、米国マサチューセッツ州生まれのアメリカ人で、明治初期に開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問を務めた。北海道開拓の基盤となるさまざまな提言を行い、近代的技術の導入による産業や教育の振興を指導した。殖民地の選定や営農の指針策定など屯田兵制度の導入にも関わった。

目次

[編集] 経歴

  • 1804年  8月31日 米国マサチューセッツ州で誕生
  • 1848年  8月31日 合衆国農業会副会長に就任
  • 1861〜66年  南北戦争で北軍に従軍、准将にまで昇進
  • 1867年  合衆国農務省第二代長官(農務局長)に就任
  • 1871(明治4)年  4月 ワシントンの農務省で日本国代理公使・森有礼と開拓次官・黒田清隆と会見、北海道開拓顧問・御雇教師頭取就任を受諾

           6月 農務局長を辞任

           8月 トーマス・アンチセル、A.G.ワーフィールド、スチュワート・エルドリッジらを伴い来日、横浜に到着

           9月 東京に官園設置し北海道に導入する作物の試作など開始、七重、札幌にも官園を開設

              アンチセルワーフィールドを北海道に派遣

  • 1872(明治5)年  1月 北海道開拓のための予備報告書(第1次ケプロン報文)を提出

           3月 農科大学設置の進言に基づき東京に仮学校開設

           4月 牛8頭、馬5頭、羊9頭、種子、蒸気機関、製材・製粉機、農機具など米国から輸入、北海道へ送る

           6月〜11月 第1回北海道巡察(函館、室蘭、札幌、小樽内など)

           7月 北海道視察報告書(第2次ケプロン報文)を提出

  • 1873(明治6)年  6月〜9月 第2回北海道巡察(ベンジャミン・スミス・ライマンを伴って石狩川・豊平川の流域調査、開拓使農園・萱沼炭鉱視察)
  • 1874(明治7)年  5月〜8月 第3回北海道視察(新室蘭、琴似と札幌周辺の屯田兵入植予定地・候補地を調査、ライマンとともに石狩川源流部の鉱物調査、日高沿岸部の牧畜・漁業などの開拓状況を調査) 
  • 1875(明治8)年  3月 最終報告書「ホラシ・ケプロン報文」を提出、明治天皇より感謝と送別の言葉を受ける

           5月 マンローから「蝦夷地金山報文」を受ける、契約を延期して「報文要略」をまとめ開拓使に提出後、帰国のため横浜を出港

  • 1876(明治9)年  8月 ケプロンの進言に基づき札幌農学校開設
  • 1884(明治17)年  1月 勲二等旭日章を受章
  • 1885(明治18)年  2月22日 ワシントンで死去、80歳

[編集] 業績・足跡

 英国から移住した医師の家に生まれ、南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国の第二代農務局長となった。1871(明治4)年、渡米中の開拓次官・黒田清隆と出会い、黒田の強い要請を受けて開拓史顧問としての来日を決意し、職を辞した。同年7月7日、工鉱業技師アンチセル、測量土木技師ワーフィールド、秘書エルドリッジを伴って横浜入り。お雇い外国人(外国人技術者)らを指揮して北海道開拓に関する意見を開拓使長官に進言するとともに、事業の推進にも関わった。

 アンチセルワーフィールドの予備調査に続きケプロン自身も、三回にわたって北海道を視察調査し、北海道開拓の指針を『ケプロン報文』にまとめた。開拓構想は、農業牧畜・水産、鉱工業の振興から道路や鉄道整備、教育など多岐にまたがり、精緻な調査に基づいていることや欧米の先進的な技術の活用を目指している点に特徴がある。特に、札幌を首都とすることや、札幌農学校の創設につながる農科大学の設置、米国式の農畜産技術の導入などの提言は、現在につながる北海道開拓の基盤となった。

 1875(明治8)年5月23日帰国後は、ワシントンで余生を送った。開拓史顧問在任中の職務に対しては批判の声も聴かれたが、1884(明治17)年、明治天皇から勲二等旭日章を受章。1906(明治39)年には、業績を顕彰して大通公園に銅像が建立された。ケプロン像は、戦時下の1943(昭和18)年に軍事資材として供出されたが、1968(昭和434)年の開道百年記念事業で大通10丁目の公園広場に再建された。

[編集] 屯田兵とケプロン

 ケプロンを招聘した開拓次官・黒田清隆は1873(明治6)年、屯田兵制度の創設を建議し、開拓長官に就任した翌年の1875(明治8)年には琴似に最初の屯田兵を入植させるが、この間、ケプロンは屯田兵による殖民政策に対してもさまざまな助言をした。
 1874(明治7)年5月から8月に及んだ第2次の北海道視察では、室蘭、札幌、小樽周辺の入植候補地を調査した。小樽(現・高島、朝里の2個所)については用材と日常使う水の確保の面から、また、石狩川河口に近い予定地(註)については強い浜風の影響を開墾の障害として挙げた。
 琴似兵村兵屋建設に当たっては、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる洋式の炉の採用など寒冷地仕様とすることを提言した。しかし、実際に作られた兵屋は、一部土壁で囲炉裏付きの純和風のものだったことから「薄紙様ノ家屋」と評した。後に江別兵村で米国式やロシア式の耐寒構造が一部採用されたが、費用がかかり過ぎるために普及せず、ケプロンの進言は生かされることはなかった。
 農業については、寒冷地のために稲作は不適とし、麦類の栽培や牧畜の振興を柱とした米国式の営農を推奨した。禁止された稲作は、後に屯田兵によって普及のきっかけをつかむことになるが、プラウなどの農機具の導入や本州に比べて大規模な営農形態など、ケプロンの進言は北海道農業の基盤づくりにつながった面も多い。
 屯田兵の兵器の装備についても、ケプロンは黒田清隆に助言し、離任・帰国後も外国からの小銃の輸入に便宜をはかった。

註:『ケプロン日誌』には地名を「ポンナリ」、また黒田清隆に提出した『ケプロン報文』では銭函近傍で石狩との間の「パンナリ」とそれぞれ表記してある。現在の石狩市花畔(ばんなぐろ)とする説があるが、銭函と小樽内川(現・新川)の間の「ポンナイ」とする見方もある。

[編集] 黒田清隆とケプロン

 黒田清隆とケプロンの出会いは、1871(明治4)年の黒田の訪米がきっかけとなった。駐米公使・森有礼とともに、北海道開拓に必要な人材を求めていた黒田は、ケプロンに面接したそのときから開拓総顧問となることを要請した。ケプロンに全幅の信頼を寄せる黒田は、ケプロンの帰国後も盟友関係を続けた。
 屯田兵が征討軍として西南戦争に出征した1877(明治10)年には、征討参軍も務めた(途中辞任)黒田清隆が、ワシントンDCに帰国していたケプロンに再三電報を送り、大量のレミントン銃と弾薬の調達について協力を要請した。顧問の役を降り、まったくの私人となっていたケプロンとの親密な関係がうかがえる。

 ケプロンの訃報に接した黒田清隆は、マーガレット夫人に宛てて次のような弔辞を送った。
 「令夫の訃を聞く。実に驚悵に堪えず、嗚呼余茲に一友を失へり。余は別後歳更り地隔つと雖も、悲嘆自ら措く能はず、況や卿の哀悼をや。真に令夫の北海道に在りしや至情人を動かし励精職を尽くし、其功永く事業に存せり。茲に一辞を呈し、聊か哀悼を表す」(茅原華山文集より)

[編集] 人物評、エピソード

[編集] 札幌で処刑を目撃

 ケプロンは三度目の北海道視察の際、札幌で死刑執行の場に出くわした。妻殺害の罪で有罪とされた男の公開処刑は、日本刀による斬首だった。刑場の様子や群衆の表情を含めて処刑の一部始終を日記に記したケプロンは、「首を刎ねる日本独特の遣り方で、いかに静かに死を迎えたかは、実に見るも不思議な光景である」(西島照男訳『ケプロン日誌』から)と印象を綴っている。

[編集] 栄典

  • 明治17年(1884)7月  勲二等旭日章


[編集] 親族


[編集] 著作

  • 『開拓史顧問ホラシ・ケプロン報文』和文訳、開拓史刊 1879年
  • 『ケプロン日誌 蝦夷と江戸』西島照男訳、北海道新聞社 1985年
  • 『ホーレス・ケプロン自伝』西島照男訳、北海道出版企画センター 1989年


[編集] 関連資料

  • 井黒弥太郎『黒田清隆』、人物叢書・吉川弘文館 1977年。新版1987年


[編集] 伝記

  • 『北海道のいしずえ四人 黒田・ケプロン・岩村・永山』井黒弥太郎・片山敬次、北海道開拓功労者顕彰像建立期成会 1967年
  • 『北海道の歴史(ケプロン将軍)』高倉新一郎、講談社北海道支社 1949年
  • 『ホーレス・ケプロン将軍』西島照男訳、北海道出版企画センター 1986年
  • 『ケプロンの教えと現術生徒』富士田金輔、北海道出版企画センター 2006年
  • 『黒田清隆とホーレス・ケプロン』逢坂信吾、北海タイムス 1962年

[編集] 史跡、博物館

  • ホーレス・ケプロン像 (札幌市中央区大通西10丁目)
  • ホーレス・ケプロン顕彰碑 (室蘭市・入江臨海公園)
  • 旧函館博物館1号・2号 (函館市青柳町17-5-4)
  • スミソニアン研究所アメリカ合衆国国立自然史博物館 (ワシントンD . C)

[編集] 外部リンク


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