真鍋喜三郎
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[編集] プロフィール =
- 真鍋 喜三郎 (東秩父 明治28年5月入地 徳島県出身 兵屋番号138番)
[編集] 出典元
『秩父別町史』(1964年・昭和39年)
[編集] 要旨
- 育英事業振興のため収益事業を計画した
- 潅漑溝掘鑿について
- 造田と収穫について
[編集] 証言内容
- 村を立派にするには村民が偉うならねばならぬ。村に偉い人間を育てるために、こりあ何とかして育英事業をおこさねばならぬ、村の周囲には屯田兵村設置のときとられた風防林地がある。道路敷地とこの風防林地とからの収益で村から二人や三人の子弟は大学に出すことが出来る。こう考えていたところへ起って来たのが道庁の風防林地処分問題だ。『風防林地は官有地だから引上げてこれを民有地として処分する』というので測量して行ってしまったという。ところが右風防林地は登記という措置こそおくれておれ村の土地台帖にちゃんと登載されているのである。支庁長に逢ってその不法を詰問するとともに右腹案あるところも語り、事の次第によっては上京もする決意のほども話して強硬にその取消しを談じこんだ。後日事務的措置のために数人の人たちにも出かけてもらってこれは解決した。
- かの潅漑溝掘鑿の資金を得る道として公有地の売却のことに対しても「立木は売っても、土地は売ってくれるな」と懇々頼んで置いたのであったが、村にかえって見れば公有地は売られているし、道路敷地も救済事業とかのためにつぶされてしまっているし、次に大雨竜原野の水田が開発の上から強く反対せざるを碍なかつたのが深川、一已、秩父、三村連合土功組合設立の申入れ問題だ。本村とともに、雨竜川に水源を求めて約四千町歩にちかい水田を潅漑しようというのである。しかし雨竜川のみの水を以てしては数年を経ずして水不足を来すは必定であり、三村ともに近い将来水田に開発される大地積を控えていることを思えばぱ、一方満々と水をたたえてただ流れ去る石狩川を眺めつつ日夜水不足に悩むことはお互いのために策を得たものではない。大雨竜原野の水田開発のために深川、一已の申入れは石狩川に水源を変更されんことを切望して反対したのであった。
- 私の宅地西側二反歩は湿地であったのでこれを利用して苗植をしました。籾種は東旭川の斎藤林太郎さんから購入したのです。何しろ水利がないので父や母が提桶で水をかつぎ、各種株に汲みかけ、又時々の雨をまったものです。二反歩で一斗三升五合の収穫でしたが、両親等はこれを戴いて歓びました。これは二十九年の話です。三十一年の夏は旱魃でしてね。五条通二丁目一中隊の人たちが造田して、二中隊の人たちが秩父川から水を引いてきて水田をつくっているその余水で耕作したのです。ところが二中隊の方でも耕作者がふえて水不足のところです。せきをしたとか切ったとかでまさに腕力に及ぼうという水喧嘩の一幕もありました。建部中尉がかけつけ仲に入って漸く治った次第です。