田中喜一
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[編集] プロフィール =
- 田中 喜一 (西秩父 明治28年5月入地 佐賀県出身 兵屋番号227番)
[編集] 出典元
『秩父別町史』(1964年・昭和39年)
[編集] 要旨
- 養子入りし17歳で入隊
- 白旗掲げて一番乗り
- 水害で荷物が届かず難儀した
- 後年兵の受け入れ準備について
- 相撲はみんな強かった
[編集] 証言内容
- 私はこちらへ来てから田中家へ養子に入り、明治二十九年一月十七歳で入隊したのです。だから皆とは半年以上も訓練がおくれているものだから一人特別に教育を受けたんです。ラッパの方でしたから夏も冬も一已の大隊本部へ通ったのです。
- 「寒い寒い所だ」と覚悟して来たせいか左程に寒いとも思いませんでしたね、かえって今の方が寒いですよ。深川の山室さんという人が案内者でやって来たんだが、「お前これを持って行け」と言われて、白地の旗を押し立てて私が先頭になって来た。その旗を二条一丁目の十字路に立て、そこからみんなめいめいの兵屋番号の方へ行ったんだが、秩父への本当の一番乗りは私さ。アハハ
- 滝川が水害で荷物が一週間も遅れて随分困った。食事も一週間は炊き出しを食べ、その問に臼をこしらえたりして玄米で貰う扶助米を搗いたのです。
- 二十九年兵の兵屋は二十八年に木挽や大工が方々へ小屋をかけて建てた。「お前達の弟が来るんだ」と上官の指揮もあって、鍋釜のかなけも抜くし薪も揃える、搗いた米も持って行って置いてやる、いよいよ二十九年兵が入って来た時は「誰れは誰れを」ときめられた世話分担によって連れて行ってもやった。早い人はこの一年間に宅地の半分も拓き、土地のよい所では相当の収穫もあったようです。
- 相撲ですか、相撲は好きでしたからね。たしか二十八年の十一月三日でしたよ。天長節のお祝いに学校(第一)の前で相撲があったが、雪が降り出してね、雪の土俵でとりましたよ。この日の雪がとうとう根雪になってしまってね。秩父にはとり手もたくさんいたし、みんな強かった。いつも二十四、五人引つれて遠くは夕張まで行ったよ。他所の相撲をみな向うにまわし秩父だけで東西の一方をもって張合った。ちょとやそっとのことは物言いをつけて押切りもしたさ。