浅井信三郎

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[編集] プロフィール =

浅井 信三郎 (東秩父 明治29年5月入地 石川県出身 兵屋番号107番)

[編集] 出典元

 『秩父別町史』(1964年・昭和39年)<『開村三十五年配念誌』

[編集] 要旨

  1. 潅漑溝掘削の経緯について
  2. 公有財産の処分とまちづくりについて

[編集] 証言内容

  1. 私は明治二十九年兵にしてすでに先輩二十八年兵が草分けをなし、何かと世話になり開村当所草分の真の辛酸を知らざるは全く二十八年兵のお蔭で今に忘れることの出来ない追憶です。来て見れば第一中隊は非常に地味肥沃なるも第二中隊は一般に地味悪く、分けても一丁目の現在停車場附近は惨たるものでした。二丁目は湿地にして、二十九年既に水田の試作あり良成績なるを見て、吾等米産地より来た者の意を強くする所でした。而して明治三十一、二年頃でした我等第二中隊第七班全部と第六班の一部とが共同して秩父別川から導水して宅地を水田にしたのでした。当時私が指揮者となり機械も用ひず目測で水路を掘鑿したのでしたが全部共同事業で是れが本村潅漑溝の元祖です。それより益々水田熱高まり第二中隊の一丁目二丁目の当時の戸主即ち屯田兵の有志達が非常なる尽力により中隊長鷹森大尉其の他幹部と共に発起して計画を立て水源地の探険となり、其の後私は森山中尉の命により森繁太郎君を助手として幹線水路の測量図を取り森山中尉により計画図面を調製されたるが、現在本村の開発の基礎となる秩父別潅漑計画の起源でした。それから協同事業を以って著手する事になり皆が出て掘って見たが大工事にして及ばず一時中止し更に両兵村の公有財産其の他の蓄積金を集め是を基礎として技師をして設計せしめ公入札に附し著手したのでしたが頗る難工事にして、請負人が失敗して代ること三代、最後には残工事を引上げ直営工事により漸く第一期の工事を完成したのでした。当時の監督もさじを投げ、仕方なく私が監督に出たのでした。直営の際は土方の指揮まですることになったのでした。
  2. 茲に村民諸氏が記憶せざるべからざることは此の資金が始め公有財産積金を土台として起工し不足分は高利なる村債によりて完成し尚ほこの高利なる負債を残し、村民に重大なる負債をなさしむることは如何に有利なる水田にしても創設当時ではあり又日露戦役と凶作等の事あり村民の困難一方ならず、且つ将来自治の確立に支障を来すべきを思ひ一已、納内に存在する公有財産地を売却し是を村に寄附して村債の償却に充てることになったのでした。当時秩父別村内にある公有地も共に売却する時は有利に売却出来るとの申込もあったが、是れは将来村有財産として存置すべき必要ありとして残し置き、後屯田兵制度廃止の際、全道の兵村は部落有財産として屯田兵の共有となしたるも本村だけは個人の利益を捨てて公共のため村有財産に寄附したのが今日の如く有利なる基本財産となり、又本道の水田は誠に有利なるも土工費の多額の負担に苦しみつつある場合も独り本村だけは軽微なる負担ですむことは屯田兵の賜と思ひます。

 

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