最新版 |
編集中の文章 |
127行: |
127行: |
| <br> | | <br> |
| | | |
− | === 作付===
| + | You're a real deep thirken. Thanks for sharing. |
− | [[ファイル:Sink heioku.JPG|x300px|right|新琴似屯田兵の一家と兵屋]]
| + | |
− | 新琴似兵村の入植当初の農業は、[[養蚕]]と麻の栽培が主眼とされた。明治20(1887)年に給与された種子は、麻(1戸当たり4升5号=約8.1リットル)、大麦と小麦(各1斗=約18リットル)、大豆と小豆(各5升=約9リットル)、馬鈴薯(4斗=約7.2リットル)で、ほか蚕卵用原紙4枚半だった。<br>
| + | |
− | 養蚕は、寒冷地のために生育が悪く、[[新琴似兵村会]]は明治25(1892)年に道庁に申請し、個人での養蚕をやめた。明治23(1890)年に[[札幌製糖会社]]が設立されたのに伴い各戸1反(約10a)のビート栽培をしたが、収量が少ないうえに運搬費がかさみ、間もなく生産を中止した。染料の藍、赤土タバコ、畳用のイグサ、柳行李用のキリュウなども産業として根付かず、副業の機織りや製麺、製紙も同様だった。<br>
| + | |
− | 入植から3年間の給付期限が切れて以降、新琴似屯田兵の生計の支えとなったのが、亜麻栽培だった。明治23(1890)年、現麻生地区に[[北海道製麻会社]]が亜麻製線工場を建設したのを機に、作付面積は拡大していった。亜麻の価格が低落した明治28(1895)年になると、エン麦の生産が盛んとなり、軍馬飼料の需要増も追い風となった。明治後期から昭和初期にかけて、新琴似兵村では、亜麻、エン麦、ビール麦が農業の中核を占めた。また、大根は都市化が顕著となり始めた昭和40年ころまで、新琴似の特産品として農家の大きな収入源となった。<<br>
| + | |
− | 新琴似兵村における米作りは、明治25(1892)年に始まった。明治32(1899)年に北海道庁が試験用種子の配布を始めると、水草栽培はほぞ全村に広がった。しかし、凶作や洪水被害が相次ぎ、242町歩=haの増田計画に対して大正7(1918)年の作付面積は15町歩=haにまで減少した。
| + | |
− | <br>
| + | |
| | | |
| === 潅漑・治水 === | | === 潅漑・治水 === |
144行: |
138行: |
| == 公有財産と自治活動 == | | == 公有財産と自治活動 == |
| | | |
− | ===公有財産 ===
| + | Hey! Someone in my Facebook group shared this website with us so I came tolook it over. I’m definitely enjoying the information. I’m book-marking and will be tweeting this to my fostowerl!Oulstanding blog and amazing design. |
− | 新琴似兵村に給与された公有財産地は、発寒川上流官林、月寒村字厚別、上手稲村、下手稲村、発寒村、新琴似村(現・新川地区)などで計324万7,937坪(約1,072ha)に上った。<br>
| + | |
− | 新琴似兵村では明治32(1899)年、公有財産取扱委員会が発足し、屯田兵の中隊編制が完了した明治42(1989)年には新琴似兵村会が誕生した。「新琴似兵村会記録」によると、この時期に兵村会が公有地を借り受けて小作させるなどして運用し、基金を増大させた。明治44(1911)年に新琴似兵村会を解散し、翌年発足した新琴似屯田親交会が、部有財産の運用に当たった。さらに大正6(1917)年に新たに結成された新琴似兵村部落会が、部有財産を借り入れ、運用益などで部落の公共事業を援助した。<br>
| + | |
− | 新琴似兵村部落会は昭和16(1941)年、戦時体制に沿って部落連合会の傘下に編入されたのを機に、残されていた部有地約128町歩=haの一部を新琴似神社に寄付し、残りの売却代金を部落の道路改良資金などに充当し、すべての部有財産がなくなった。
| + | |
− | <br>
| + | |
| | | |
| === 自治とまちの変遷 === | | === 自治とまちの変遷 === |