志賀峰吉
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[編集] プロフィール
- 志賀 峰吉(明治25年7月入地 京都府出身 兵屋番号70番)
[編集] 出典元
- 「美唄屯田兵 志賀峰吉の生涯」(志賀通清、『屯田』第26号〜31号に連載)
- (日記風の自伝「波上浮沈記」がベースとなっている)
[編集] 要旨
- 志願の動機について
- 入地の状況について
[編集] 証言内容
- 明治二十五年の春の事なり。 弓削村大字下弓削字清田の牧歌次郎氏方の婿養子、小一郎殿がこの度北海道の屯田兵の募集が有るが、その条件が非常に結構であるから、全家相談し応募する事になった、と言う話を父鉄松が聞いて来て、我が家もこれに真似て応募したらどうか、と言う話なり。 小生も色々考えたれど、此処に居て動かず奈落の底に転落して、惨めな姿を先祖代々の土地の人にさらけ出すよりも、この苦境を脱するには動いて活路を見出す方が良かろうと考え、兎も角了承せり。 嫁は如何にすべきかと思いし時、好都合にも伯母佐伯オクニの娘民子が、沢尻の某家に嫁ぎ居りしが、或る事情により出戻りて居るを、此の娘を小生の嫁となし、一緒に九十郎を引き取りて、北海道に行く事とし、屯田兵に関する規則を確かめ願書を提出せり。 身体検査のみの試験にて合格、屯田騎兵として採用されたり。牧小一郎殿は不合格の為取りやめとなりぬ。 北桑田郡では四人採用、胡摩村の船越久太郎君と小生は騎兵、周山村の二木小三郎君と神田村の山内長吉君は歩兵に採用となれり。而して渡道の日が迫り七月三十日乗船と決定されし為、日々出発の準備に忙殺され、家政の整理をなすも、相当多大の売掛代金は取れず、借金は返済せねばならず、村中の皆様に惜別せねばならず、親戚知己の方々にも同様に三日続けて約百人近くの人を招き、盛大な宴会を開いて、先祖代々数百年続いた村の親縁たちと別れを惜しみたり。家の始末は出発後上弓削の上オコト叔母が世話してくれるので、畳み建具など一切の竃道具を居抜きのまま出発する事となれり。
- 斯くして明治二十五年七月二十六日、志賀家一行八人の家族は村の人々、親類縁者の方々に村界迄の見送りを受けて、恋しき故郷を出立致し、村界にて見送りの方々と別れを惜しみつつ船井郡殿田に到着せり。この日の行程五里余り、殿田にて一泊せり。 翌二十七日此処迄見送りを受けし方々と別れ、旅駕籠は帰し徒歩にて家族一行は相助け合いて其の日は綾部に宿泊せり、真に心細き旅路なり。 翌二十八日、綾部にて川舟に乗り(由良川)舞鶴湾の由良まで下りて下船し、又々徒歩にて由良の港を過ぎ宮津の町に辿り着き、定められたる宿屋に落ち着き、旅装を解き疲れを休めたり。 翌二十九日、当地出張の屯田兵募集の係官に、到着した旨の届け出を為し、故郷より此処まで見送られたる、石浦栄吉、茶谷平太郎の二人と、船越、山内、二木、志賀の家族全部集合したる記念写真を為し、以後思い思いに宮津の町、その他を見物せり。 小生は民子、小滝と切戸の文殊堂に参拝し武運長久を祈り天の小舟等を拝観し、宮津の宿にもどり、其の夜を過ごす事となれり。これぞ本土を離れ永遠の名残りの夢を結ぶ一夜なり。明くれば明治二十五年七月三十日、乗船当日朝餉を終りて支度も調い命令待つ、午後八時乗船せり。見送りの人々は乗船を見届け此れにて別れを告げて下船せられたり。 是ぞ石浦栄吉、茶谷平太郎の両君と今生永遠の別れなりし、程なく船は?を解き、宮津港を後に一路北海道へと急ぎたり。 乗船当時は波静に平和なりし天候も、午後となりて一天俄に掻き曇り、風雨荒れ狂いて、さしもの大船も木の葉の如く上下左右に動揺し、船中の一向舷船嘔吐七転ハ倒、力弱き婦女子は半死人の如く弱り、小滝の如きは堪えきれず、医師の診察を受け、上等の別室へ移され、父鉄松に看護を受け航海を続けたる次第なり。この風雨激しき処は能登岬なりと聞く。 此の苦難航海は約一昼夜なりし、翌日は梢天候穏となり、北海道小樽の港の見ゆる時きは、翌日午後三時頃なりしと覚ゆ。