屯田兵横死事件
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屯田兵横死事件とは、明治10(1877)年4月15日、西南戦争に動員された屯田兵遠征隊所属の2人が、小樽金曇(こんたん)町の宿泊先・旅館三宅屋で口論となり、一方が射殺された事件で、発砲した屯田兵は銃殺刑に処された。戊辰戦争時の奥羽越列藩同盟をめぐる遺恨が背景にあったとされるが、詳細は明らかでない。
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[編集] 事件発生
明治10(1877)年2月に西南戦争が勃発すると、明治政府の征討参軍に就任した黒田清隆は4月9日、屯田兵出征準備の内命を下した。琴似兵村と山鼻兵村の屯田兵を主力とした屯田兵遠征軍645人は、翌10日、札幌を出発したが、船積み作業の遅れなどから小樽出港は同15日までずれ込んだ。小樽で船待ちの間に、夜、宿としていた金曇町の三宅屋で、発寒兵村の屯田兵(岩手県出身)が、兵村で隣同士の中崎源五郎と口論の末に、二階に上がろうとした中崎をレミントン銃で射殺した。二人は南部藩で隣同士であったころから反目し合っており、南部藩の秋田の藩攻撃を巡って激論の末、発砲したとみられている。犯人は直ちに苗穂の監獄に収監され、西南戦争の終結後の明治11年2月、兵村の南にある三角山の射撃場で銃殺刑に処された。中隊長の門松経文大尉の監督責任問題も浮上した。
[編集] 軍法会議
[編集] エピソード
銃殺刑は、第一中隊の琴似屯田兵5人によって行われたが、1回目は全員が的を外し、指揮官に叱咤されて2回目にようやく弾が当たったとされる。事件後も犯人の家族は兵屋の居住が許され、遺族扶助金が給付された。