「屯田兵の服装」の版間の差分

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[[ファイル:Seifuku tippu.jpeg|x350px|right|屯田兵の制服姿(復元)]]
 
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屯田兵の軍服は、基本的に陸軍の服制に準じたが、兵種としては特殊だったため、初期においては左袖に赤い星マークの「北辰章」が付けられた。袴(ズボン)も明治28(1895)年までは、一般の「紺色」ではなく「藍色・霜降」が用いられ、側章も赤ラインの「緋絨」が用いられた。正服、夏服、小倉服の三種が支給され、開拓作業時には主に小倉服を着用したとされる。
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屯田兵の軍服は、基本的に陸軍の服制に準じたが、兵種としては特殊だったため、初期においては左袖に赤い星マークの「北辰章」が付けられた。袴(ズボン)も明治28(1895)年までは、一般の「紺色」ではなく「藍色・霜降」が用いられ、側章も赤ラインの「緋絨」が用いられた。正服、夏服、小倉服の三種が支給され、開拓作業時には主に小倉服を着用したとされる。<br>
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写真は、復元した屯田兵の正服姿(秩父別町郷土館)。
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== 軍服の変遷 ==
 
== 軍服の変遷 ==

2014年9月27日 (土) 10:50時点における版

屯田兵の制服姿(復元)

屯田兵の軍服は、基本的に陸軍の服制に準じたが、兵種としては特殊だったため、初期においては左袖に赤い星マークの「北辰章」が付けられた。袴(ズボン)も明治28(1895)年までは、一般の「紺色」ではなく「藍色・霜降」が用いられ、側章も赤ラインの「緋絨」が用いられた。正服、夏服、小倉服の三種が支給され、開拓作業時には主に小倉服を着用したとされる。
写真は、復元した屯田兵の正服姿(秩父別町郷土館)。

目次

軍服の変遷


袖に北辰章

 屯田兵の最初の制服は、琴似兵村に最初の屯田兵が入る直前の明治8(1875)年5月5日付で、開拓使長官・黒田清隆が太政大臣・三条実美に提出した「屯田兵服制の儀伺」に図示された将兵の上衣が原型になったとみられる。
 図案によると、詰め襟、筒型の長袖で、前身ごろは左前、腰の部分が切り替え様となっている。左袖の肩の縫い目下5寸(約15cm)の位置に、径1寸5分(約4.5cm)の星形をした「北辰章」が付き、両袖口には階級に応じて金線(大中少佐)、銀線(大中少尉)、緋線(曹長以下)が入る。
 最初の屯田兵として明治8(1875)年5月17日に入植した琴似屯田兵は、野良着など各自が持ち込んだ衣服をめいめいに着用して整列した写真が残されている。黒田案の提出時期から見て、実際に制服が支給されたのは、しばらく後と考えられる。

藍色霜降に緋色の側章

 近代日本における軍服の歴史は、明治3(1870)年の徴兵制実施に合わせて同年12月22日に発せられた太政官布告(第957号)の「海軍服制」「陸軍徽章」に始まった。陸軍は「達磨=だるま・ドルマン」と呼ばれた丈の短い上衣フランス式を採用し、明治6(1873)年9月24日の「陸軍武官服制」(太政官布告第328号)によって詳細が定められた。屯田兵の軍服も、これに沿ったデザインだが、上衣が他と同じ紺色なのに対し、袴については「藍色霜降」で側章は緋色とされた。

茜色・萌黄線の美唄騎兵

騎馬屯田兵の制服姿(復元)

 陸軍の服制は明治19(1886)年7月6日に改正され、それまでのフランス型からドイツ型へ大きく転換された。第二種帽や軍衣の地質は、将校等は濃紺絨、下副官(主に曹長)以下は紺絨とされたが、屯田兵の袴・側章は「藍霜降絨・緋絨」という独特の様式が引き続き採用された。
 ただし、明治24(1891)年以降に編成された騎兵については、一般の服制に基づいて「茜絨・萌黄絨」の袴・側章が使われた。
 

シンボルカラーの終焉

 屯田兵のシンボルともされた袴の「藍霜降絨・緋絨」は、西南戦争において彼らの活躍ぶりとともに注目を浴びた。日清戦争で出動し、東京の竹橋兵営に駐屯した際には、「近衛兵から霜降り赤線のズボンが羨ましがられた」(『琴似屯田百年史』)というエピソードが残されている。
 しかし、日清戦争で征清第1軍に編入された際に、屯田兵特有のカラーが問題ともなった。元々、地域限定の少量生産のため、急な増員や転科の度に不都合が生じるという理由から、陸軍省は日清戦争終結後の明治28(1895 )年8月、他と同じ紺色に統一することを決め、屯田兵の「霜降ズボン」は姿を消した。

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