「屯田兵の服装」を編集中

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[[ファイル: Kenbutitondenhei.jpeg |x260px|right|現役時代の剣淵屯田兵]]
 
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 明治27(1894)年の[[日清戦争]]に動員された屯田兵は、東京の竹橋兵営に駐屯した際に、「近衛兵から霜降り赤線のズボンが羨ましがられた」(『開拓使最初の屯田兵』『琴似屯田百年史』)というエピソードが残されている。「霜降」は税関吏の官服に採用された例(『神戸税関百年史』)があるが、軍関係では珍しい素材で(明治3年の陸軍徽章では歩兵の袴が「鼠色霜降に黒側章」とされ、明治6年の陸軍武官服制で「紺大絨」に改められた)、学生服に使われたこともあって当時の若者の憧れのファッションとして流行したことも背景にあったと見られる(岡山県『岡山県の繊維産業』)。<br>
 
 明治27(1894)年の[[日清戦争]]に動員された屯田兵は、東京の竹橋兵営に駐屯した際に、「近衛兵から霜降り赤線のズボンが羨ましがられた」(『開拓使最初の屯田兵』『琴似屯田百年史』)というエピソードが残されている。「霜降」は税関吏の官服に採用された例(『神戸税関百年史』)があるが、軍関係では珍しい素材で(明治3年の陸軍徽章では歩兵の袴が「鼠色霜降に黒側章」とされ、明治6年の陸軍武官服制で「紺大絨」に改められた)、学生服に使われたこともあって当時の若者の憧れのファッションとして流行したことも背景にあったと見られる(岡山県『岡山県の繊維産業』)。<br>
  
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 しかし、征清第1軍に編入された際に、屯田兵特有の「藍霜降」が問題ともなった。元々、地域限定の少量生産のため、急な増員や転科の度に不都合が生じるという理由から、陸軍省は日清戦争終結後の明治28(1895 )年9月、他と同じ紺色に統一することを決め、屯田兵の「霜降ズボン」は漸次姿を消していった(陸達第89号)。これに代えて陸軍省は、屯田兵の識別のため軍衣の襟の両端に特別の徽章を付けることとした(陸甲第108号)。この襟章のデザインには「北」の文字が使われたとする説(北海道教育委員会『屯田兵村』)もあるが、明確な資料はない。<br>
[[ファイル: Kisyo m28.jpeg |x260px|left|特別の徽章]]
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 しかし、征清第1軍に編入された際に、屯田兵特有の「藍霜降」が問題ともなった。元々、地域限定の少量生産のため、急な増員や転科の度に不都合が生じるという理由から、陸軍省は日清戦争終結後の明治28(1895 )年9月、他と同じ紺色に統一することを決め、屯田兵の「霜降ズボン」は漸次姿を消していった(陸達第89号)。これに代えて陸軍省は、屯田兵の識別のため軍衣の襟の両端に特別の徽章を付けることとした(陸甲第108号)。この特別襟章のデザインは、「陸達第88号」(明治28年9月30日)によると、3つの尖端が閃光を連想させる幾何学模様で、大きさは5分(約1.5センチ)、品質は金属鍍銀色、詰め襟の前部、左右に一個ずつ対称に付けるものとされている。左右一対で「北」の文字に見える。<br>
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