「屯田兵の服装」を編集中

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[[ファイル:Seifuku m8.jpg|x300px|right|明治8年作成の上衣図案]]
 
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 創設当初の屯田兵の制服は、明治8(1875)年5月5日付で開拓使長官・[[黒田清隆]]が太政大臣・三条実美に提出した「屯田兵服制の儀伺」に基づいて、鎮台兵に準じることとなった(5月18日太政官布達)。したがって、正衣は紺大絨ホック掛け、正袴は紺大絨で黄色の側章、正帽は黒塗り革製、略服は紺大絨でホック掛け、丈がベルトライン近くまでの短いものだったことになる(略装は明治7年制定、明治8年改正で略装は小倉織となる)。ただし、開拓使の章号として左袖の肩の縫い目下4寸(約12cm)の位置に、径1寸5分(約4.5cm)の五稜星を型取った「北辰章」(北辰は北極星を指す)を付けることとし、これが鎮台兵と識別するうえで目印となった。「屯田兵服制の儀伺」に添付された図案によると、詰め襟、筒型の長袖で、前身ごろは左前、腰の部分が切り替え様となっている。両袖口には階級に応じて金線(大中少佐)、銀線(大中少尉)、緋線(曹長以下)が入るとの説明が添えられている(右図参照)。<br>
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 創設当初の屯田兵の制服は、明治8(1875)年5月18日発令の太政官布達により鎮台兵に準じることとされた。したがって、下士以下の屯田兵についても、正衣は紺大絨ホック掛け、正袴は紺大絨で黄色の側章、正帽は黒塗り革製、略服は紺大絨でホック掛け、丈がベルトライン近くまでの短いものだったことになる(略装は明治7年制定、明治8年改正で略装は小倉織となる)。<br>
  
 最初の[[屯田兵]]が琴似兵村に入地したのは、「屯田兵服制の儀伺」提出の直後(5月17日)であったことから、屯田兵が服制にしたがった軍服を着用したのは、しばらく後のことと思われる。入植当時の写真には、和服に袴、白い兵児帯姿や野良着など各自が持ち込んだ衣服をめいめいに着用して整列したものが残されている。また、琴似屯田兵・[[山田貞介]]の長男・[[山田勝伴]]の記録によると、琴似兵村では寒冷地仕様の装備の試行錯誤が繰り返され、綿糸を厚く織った紋羽(もんぱ)仕立ての冬服を着用したという(『開拓使最初の屯田兵』)。
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 また、この布告の直前の5月5日付で開拓使長官・[[黒田清隆]]が、太政大臣・三条実美に提出した「屯田兵服制の儀伺」に添付された図案によると、詰め襟、筒型の長袖で、前身ごろは左前、腰の部分が切り替え様となっている。左袖の肩の縫い目下4寸(約12cm)の位置に、径1寸5分(約4.5cm)の五稜星を型取った「北辰章」(北辰は北極星を指す)が付き、両袖口には階級に応じて金線(大中少佐)、銀線(大中少尉)、緋線(曹長以下)が入るとの説明が添えられている(右図参照)。これによれば、左袖の北辰章が、鎮台兵と識別するうえで目印となった。<br>
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 ただし、最初の[[屯田兵]]が琴似兵村に入地したのは、「屯田兵服制の儀伺」提出の直後(5月17日)であったことから、屯田兵が軍服を着用したのは、しばらく後のことと思われる。入植当時の写真には、和服に袴、白い兵児帯姿や野良着など各自が持ち込んだ衣服をめいめいに着用して整列したものが残されている。また、琴似屯田兵・[[山田貞介]]の長男・[[山田勝伴]]の記録によると、琴似兵村では寒冷地仕様の装備の試行錯誤が繰り返され、綿糸を厚く織った紋羽(もんぱ)仕立ての冬服を着用した(『開拓使最初の屯田兵』)。
  
 
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