「屯田兵の服装」を編集中

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*[[吉原兵次郎]](野幌・明治18年7月入地 石川県出身)<br>
 
*[[吉原兵次郎]](野幌・明治18年7月入地 石川県出身)<br>
(入植時)紺脚絆に草鞋履きと言ふ異様な軍服姿の大釜伍長や多数の兵士に案内され、野幌兵村指して徒歩で出発した。<br>
 
 
屯田兵の冬の軍服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は体を曲げると背が見える短いものであった。夫れに紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許された。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸もない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けたが、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与を見ると全く隔世の感を深くする。(1934年『野幌兵村史』)
 
屯田兵の冬の軍服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は体を曲げると背が見える短いものであった。夫れに紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許された。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸もない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けたが、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与を見ると全く隔世の感を深くする。(1934年『野幌兵村史』)
  

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