大西又五郎

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[編集] プロフィール =

大西 又五郎 (東秩父 明治28年5月入地 徳島県出身 兵屋番号138番)

[編集] 出典元

 『秩父別町史』(1964年・昭和39年)

[編集] 要旨

  1. 「五升薯屯田」と揶揄されて
  2. 水稲栽培に活路を求める
  3. 奮起して60年が経った

[編集] 証言内容

  1. 元屯田兵第一給与地一町五反歩(ここに兵屋があったのです)は船中でくじを引いて定まっていましたが、第二給与地三丁五反歩は宅地を早く拓いた者から希望のところを貰ったのです。「棒を突き立てたら四尺五才も入った。よい所を自分は貰った。早く君も貰え」と八番目に貰った北村氏が言ってくれたので、私も一生懸命に宅地を拓いて置いて十三番目に貰いまし播いても穂さえ出ず赤くなって柘れてしまうのです。ようやく五升薯だけが収穫されたので、これを食べて働きました。軍の扶助米は三年限りで四年目からはありませんでしたから、一般移住の人々は我々のことを五升薯屯田といったのです。こう言われるのが残念でならなんだ。
  2. 将来の暮しの見込みも覚束ないのでみんなで百方思案したあげく水稲の栽培に相談が落ちついたのです。これが水稲試作となり、潅漑溝の掘鑿となったのです。こういうと何の障りもなく順調に事が運んだ様ですが、なかなかどうして容易な沙汰ではなかったのです。水稲の試作の結果は大変よかったのでいよいよ造田と腹をきめ一中隊の方に相談を持ちかけましたところ「北海道のような寒い土地で米を作ろうというのは馬鹿だ」といって相手にしてくれません。(一中隊の方は土地がよかったのです)三十四年までにおよそ五十回も交渉しましたでしょうね。仕方がないので自分達の共同事業でやりました。しかし毎日練兵に出るのですからその暇がない。で中隊長に「第二中隊は水田を作らなけれぱ食って行けないです。水田を作るには潅漑溝を掘らなければなりません。それで一週間の中三日だけ共同事業をやらして貰いたいと願い工事にかかったけれどなかなかうまくゆかない。二週間ばかりやって見たが、「やっぱり本職の土方でなけりゃ駄目だ」ということになり、銀行に融資を申込んだが駄目、結局現役満期後公有地の一部を村に寄附し、これを売却して工事をなしとげた訳で、この時はもちろん一中隊との相談が出来村中一つ心になって造田したのです。 
  3. 「一升の容れ物にはのう一升きり入らんぞ」これは私が屯田移住の決心した時の、伯父さんの言葉です。生き別れになろうも知れぬ遠い遠いところへ甥の私や私の一家をやりともない惜別の情あまっての言葉でしたろうが、「ようし、きっと一升の容れ物に二升も三升も入れて見せる」この奮起が居村六十年の私の働きを突き進めたのでありましたよ。

 

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