土崎安太郎
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[編集] プロフィール
土崎 安太郎 (明治23年7月南太田兵村入地 山形県出身 兵屋番号142番)
[編集] 出典元
『大田村のれきし』(1967年・昭和42年 太田村史編纂委員会)
[編集] 要旨
- 養蚕が応募の動機だったが育たなかった
- 旧米沢藩の人たちは農業指導が行き届いた
- 日露戦争後に豪州から牡馬を入れ改良の元になった
- 残っている屯田兵家族の状況について
[編集] 証言内容
- 私の父や母は、養蚕がやりたかったのが、屯田兵としてこちらへ来る動機となった。今も村のあっちこっちに桑の木が残っているが、それは当時の桑の木だ。然しここでは桑の葉をつむと、次の年は葉が伸びないので駄目であった。
- 私は山形だが、米沢藩の人達は、山公(鷹山公?)の教育が産業というものに熱心で、四月から八月までの五ヶ月間は、城へ出向かなくともよいといって、武士を武士としていばらしておかなかったので、米沢の人の多く入った所では、その人達が農業上のことを指導した。三中隊の方には米沢藩の人が多かったので、多く残っているが、四中隊の方は残っている人が少ないのは、矢張り指導者がいなかったからではないかと思われる。中隊付の将校というのは、札幌農学校の兵事科の卒業生だったので農事のことはさっぱりわからなかった。
- 馬は明治二十四年に、根室の杉田牧場から三十四五頭、土産馬(四尺一、二寸のもの)を買って来て入れた。一頭が八円から十五円くらいであったが、牛が入ったのは最近だ、二十五年の夏に中隊の見習士官が、新冠から去勢した四尺六、七寸の馬を買って来たが、耕馬として持って来たので、牝馬が少なかったのでその血統は絶えてしまった。日露戦争後、豪州牝馬を二頭入れ、これが石沢牧場と徳田牧場に払下げになって、これが馬の改良のもとになった。
- 入地者の中ではそうだ、本圧さんはどこかの城主であったし、柿崎さんは米沢の重臣であった。当時入った者の中で、今生き残っている者は、一番道路で六十戸のうち市川里治さん、川村安太郎さん、中村一成さんの三人、二番道路では五十八戸のうち友田武太郎さん、山名亀吉さんの二人だ。三番道路は、高田重晴さん、相馬房太郎さん、須崎源太郎さんと私の(土崎安太郎氏)四人だ。この通りは本隊があったので四十二戸だった。四番道路は、五十戸しか入らないので、一中隊(三中隊のこと)は全部で二百十戸しかなく、残りの十戸は二中隊(四中隊のこと)の方の五番道路九十戸入った。四番道路で残っているのは、佐藤忠太郎さん真竜へ行った徳田豊さんとだけだ。二中隊(四中隊のこと)は五番道路から、八番道路までだが、五番道路では阿野近助さんたった一人だなあ、六番道路は、滝川安太郎さん、平尾駒吉さんか、七番道路では木村文太郎さん、土生良吉さん、村上倭衛さん、藤井由太郎さんと四人いる、八番道路では小幡栄蔵さん、岡田金作さんの二人きりだ。
[編集] 参考