山鼻屯田兵と札幌警察署の抗争事件
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山鼻屯田兵と札幌警察署の抗争事件とは、明治14(1881)年11月に起こった屯田兵と巡査との紛争で、一時は山鼻兵村とこれに加勢する琴似兵村の屯田兵が札幌市中の警察署を取り囲む騒ぎとなった。開拓使幹部の仲裁によって深刻な武力衝突までには至らなかったが、この後も屯田兵の現役期間中は祭典の警備などに際して再三、両者の衝突が繰り返された。
発端
抗争は、樺戸集治監から脱走後に死亡した囚人の検死、引き渡し・埋葬などの権限をめぐる警察、屯田兵、集治監の三者間の対立が発端で、その処置に不満を抱いた山鼻屯田兵二人が交番所を占拠、破壊したとして逮捕拘留されたことから組織的な対立に発展した。囚人が、篠津兵村の喇叭(らっぱ)卒を襲って負傷させたことが、屯田兵の強硬な姿勢の引き金となった。
背景
憲兵と位置付けられた屯田兵は、明治12(1879)年の開拓使本庁舎の火災を契機に、札幌市中の警衛業務が強化された。一伍(兵卒5名)が交替で毎日午後4時半に本朝に出勤し、翌朝7時まで市中の巡回警邏に当たった。明治13(1880)年の『開拓使本庁管内一覧表』によると、琴似、山鼻の屯田兵は合わせて378名(ほか篠津に8名)、巡査は小樽分署を含めて147名が配置されていたが、屯田兵の治安業務の強化に連れて、巡査との間で職務権限をめぐる確執が生じるようになった。
影響
『函館新聞』は明治14(1881)年12月6日と同10日付紙面で、屯田兵と巡査の衝突を報じた。山鼻屯田兵がラッパを鳴らして進撃し、琴似屯田兵が馬で駆けつけた模様とともに、「実に戦争でも始まることと、家々は門口をかたく鎮して往来も絶えた」と報じた。この記事は、東京日日新聞にも転載されたことから、広く世情の関心を集めた。