屯田兵招魂碑
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屯田兵招魂碑は、明治12(1879)年、西南戦争で戦病死した門松経文大尉と屯田兵36名を祀る招魂社として札幌に建立された。当初は開拓使が開設した「偕楽園」内(札幌市北区北6条西7丁目)にあったが、明治40(1907)年に中島公園に移され、日清日露や大東亜戦争などの戦没者らを合祀する現在の札幌護国神社(札幌市中央区南15条西5丁目)の基盤となった。
経緯
西南戦争には、琴似、山鼻両兵村の屯田兵のほとんどが動員され、戦果を上げたが、論功行賞や戦没者遺族に対する扶助料は必ずしも十分ではなかった。そうした不満も背景となって、屯田兵の遠征部隊を率いた屯田兵事務局長・堀基は明治11(1878)年3月、招魂社建立上申して、太政官の稟裁を得た。征討総督を務めた有栖川宮熾仁親王よりいただいた題字の「屯田兵招魂之碑」を別動旅団長・山田顕義が揮毫し、広群鶴が伊豆の根府川石に刻んだ。
屯田兵招魂碑は翌明治12(1879)年に竣工し、建立を機に高鍋城陥落の日に因んだ8月2日を祭日と定められた。以降、明治40(1907)年に招魂碑が中島公園に移されるまで毎年この日は、屯田兵と家族だけでなく、札幌の官民上げて休日をとって奉納相撲や競馬などの催しを楽しむ祭日としてにぎわった。
探訪
屯田兵招魂碑は現在、札幌市中央区南15条西5丁目の札幌護国神社境内の彰徳苑の一角にある。10数基ある慰霊碑・慰霊塔の中でも最も古く、風化が進んでいるが、石に刻まれた屯田兵の名前はなんとか読み取ることができる。その中には、動員途上の小樽で屯田兵仲間との口論の末に銃撃により横死した兵の名前もある。