「新琴似中隊本部襲撃事件」の版間の差分
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+ | 事件直後に見習士官として第三中隊に配属された琴似屯田兵出身の[[富田貞賢]]の回顧談(河野常吉編『札幌昔日譚』)によると、黒田らが中隊本部西側の中隊長官舎を取り囲むと、異常な気配に気付いた安東中隊長は、家族を腹ばいにさせ、抜剣して身構えた。数発の銃声を聞いた毛利秀次小隊長が中隊本部前で非常ラッパを吹き鳴らし、全員招集を命じた。兵員が集合するころには一味は姿を消し、威嚇発砲だったためか安東中隊長や家族らにけがはなかったという。 | ||
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2015年7月12日 (日) 15:57時点における版
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新琴似中隊本部襲撃事件とは、新琴似屯田兵が入植して3年後の明治23(1890)年、第一大隊第三中隊本部(現・札幌市北区新琴似8条3丁目)の官舎にいた当時の中隊長・安東貞一郎大尉が銃撃された事件で、上官に対する暴行の罪に問われた7人の新琴似屯田兵が軍法会議で処罰されされた。給与米の一部を積み立てた備考資金(積穀)の返還を求めた屯田兵と中隊長との対立が発端で、暴行事件のほか護送妨害で9人(うち2人は暴行との重犯)、命令違反で1人が処罰された。
事件に関する公的文書が見つからないため、銃撃の動機や発生の日時など不明な点が多い「屯田兵唯一の反乱事件」とされてきたが、平成27(2015)年に公開された『屯田兵司令部月報』の記述から、軍法会議の宣告(判決)内容が明らかになった。宣告によると、米価暴落による生活の困窮から「積穀下げ戻し」を求めた新琴似田兵は、220人中170人にものぼり、銃撃事件の前段で中隊長との交渉や衝突があったことも明らかになった
積穀事件、積穀騒動とも呼ばれた。
目次 |
暴行事件
軍法会議宣告文によると、安東貞一郎中隊長の襲撃事件は、明治23(1890)年8月18日午後11時過ぎに起きた。主犯の黒田熊次郎ら7人が、銃や刀、棒などを持って(うち2人は徒手)中隊本部に押しかけ、中隊長の官舎に向けて黒田が銃弾4発を発砲し、うち3発が官舎に着弾した。中隊長が戸外に出て来たところで脅迫する計画だったが、突然の発砲に驚いた共犯者があわててその場から逃走し、結局全員が自宅に逃げ帰った。夜陰に紛れての犯行だったため、事件当初は犯人グループを特定できなかったが、黒田が大隊本部に自首し、共犯者の氏名と襲撃に至る状況を自白した。
事件直後に見習士官として第三中隊に配属された琴似屯田兵出身の富田貞賢の回顧談(河野常吉編『札幌昔日譚』)によると、黒田らが中隊本部西側の中隊長官舎を取り囲むと、異常な気配に気付いた安東中隊長は、家族を腹ばいにさせ、抜剣して身構えた。数発の銃声を聞いた毛利秀次小隊長が中隊本部前で非常ラッパを吹き鳴らし、全員招集を命じた。兵員が集合するころには一味は姿を消し、威嚇発砲だったためか安東中隊長や家族らにけがはなかったという。
動機と関連事件
軍法会議宣告文によると、新琴似中隊本部襲撃事件は、屯田兵各戸に対して家族構成に応じて支給された給与米の一部を一定の割合で天引き・積み立てしていた積穀の「下げ戻し」要求が発端となった。屯田兵の家族も含めて、米価の高騰による生活の困窮を理由にした嘆願要求の声が高まり、同調者は170人に上った。安東貞一郎中隊長は、「積穀は変災などに備えたものである」として拒否し、事件発生の11日前の8月7日には、大隊への嘆願書取り次ぎ要求も却下し、執拗に食い下がった総代の中嶋駒太郎を「抗命行為」として同月18日懲罰処分に付した。
これら一連の中隊長の対応に不満を抱いた黒田熊次郎ら9人は8月18日、中隊本部において「総代一人を処分するのは不当だ」と処分取り消しを求め、大隊の営倉に送られる中嶋を奪還しようと護送担当者らを殴るなどの暴行を加えた。
軍法会議
軍法会議は児玉徳太郎大佐を判士長(裁判長)として明治23(1890)年10月21日に開かれ、直ちに刑が宣告された。
関連事項
屯田兵に対する給与米の強制的な積立は、兵の不満を買う一方で、北海道における民間金融機関の先駆けとも言える「屯田銀行」の設立にもつながった。事件の翌年の明治24(1891)年6月設立の「屯田銀行」は、13個中隊の積立金13万円を資本に、その資金運用によって安全な利殖を目指すもので、「北海道商業銀行」と改称(明治33年1月)し、小樽銀行と合併しての「北海道銀行」(明治39年5月)を経て、戦時統合による北海道拓殖銀行(昭和19年)へとつながっていった。
参考
- 『新琴似兵村記録』
- 『新琴似兵村史』(1936年、佐佐木俊郎・新琴似兵村50年記念会)
- 『新琴似百年史』(1986年、新琴似開基百年記念協賛会)
- 『さっぽろの昔話・明治編上』 (1978年、河野常吉編・みやま書房)
- 「新琴似中隊長襲撃事件に新事実」 (小林博明・『屯田』第41号)
- 「子思孫尊 土地にこだわり125年」 (黒田徹談・『屯田』第51号)