「野幌屯田兵村開村記念の歌」の版間の差分
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作成年次は不明だが、開村30年記念祭の模様を報じた大正4(1915)年9月2日付北海タイムスの記事に、祝辞を述べた者の中に「桐野」の名があり、「野幌兵村小学校生徒の開村記念の唱歌あって閉式せり」と記述されていることから、この開村式のために作詞したものと考えられる。<br> | 作成年次は不明だが、開村30年記念祭の模様を報じた大正4(1915)年9月2日付北海タイムスの記事に、祝辞を述べた者の中に「桐野」の名があり、「野幌兵村小学校生徒の開村記念の唱歌あって閉式せり」と記述されていることから、この開村式のために作詞したものと考えられる。<br> | ||
桐野彦二は、明治32(1899)年3月3日に、それまでの私立江西尋常高等小学校から改称し公立となった江別第二尋常小学校の校長を務め、校歌も作詞した。<br> | 桐野彦二は、明治32(1899)年3月3日に、それまでの私立江西尋常高等小学校から改称し公立となった江別第二尋常小学校の校長を務め、校歌も作詞した。<br> | ||
− | + | 1番の歌詞にある「よぼろ」とは、漢字の「丁」を当て、「古昔21歳乃至30歳の男子で公用の使役についた者」(大正15年版・詳解漢和大字典)に由来し、丁役(ていえき=兵役に当たる者)などの用字から、「[[よぼろ村]]」は「屯田兵の村」の意味で用いたとみられる。 | |
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2013年10月1日 (火) 20:48時点における版
「野幌屯田兵村開村記の歌」は野幌屯田兵ゆかりの桐野彦二が作詞した。毎年、7月1日に江別市野幌の開村記念碑前で開かれる野幌屯田兵村開村記念式典で、子孫や地域住民や江別市立江別第二中学校と江別市立第二小学校の児童・生徒によって斉唱される。
(写真は平成25・2013年の開村記念式)
目次 |
作者・作成年次
- 作詞・桐野彦二
- 作曲・不明
- 年次・不明
歌詞
- 明治十八酉の年 西の極や山陰や 北陸よりも移り来し 我野幌のよぼろ村
- 熊もアイヌも住めりてふ 南の原の大林 名残は深し奥ゆかし 来たには高し記念の碑
- 兵と農とを兼ねよとの 御趣旨守りし甲斐ありて 豊平川を西にむけ 千町の田畑豊なり
- 東より来る千歳川 我等の幸を祝ふらし 仰げ開村記念碑を 慕へ祖先のいさをしを
出典
『野幌兵村史』(昭和9年・1936年)
解説
作詞の桐野彦二は、明治18(1885)年に野幌兵村に入植した桐野利春(鹿児島出身)の縁故者と思われる。
作成年次は不明だが、開村30年記念祭の模様を報じた大正4(1915)年9月2日付北海タイムスの記事に、祝辞を述べた者の中に「桐野」の名があり、「野幌兵村小学校生徒の開村記念の唱歌あって閉式せり」と記述されていることから、この開村式のために作詞したものと考えられる。
桐野彦二は、明治32(1899)年3月3日に、それまでの私立江西尋常高等小学校から改称し公立となった江別第二尋常小学校の校長を務め、校歌も作詞した。
1番の歌詞にある「よぼろ」とは、漢字の「丁」を当て、「古昔21歳乃至30歳の男子で公用の使役についた者」(大正15年版・詳解漢和大字典)に由来し、丁役(ていえき=兵役に当たる者)などの用字から、「よぼろ村」は「屯田兵の村」の意味で用いたとみられる。
参考