「西南戦争年表」の版間の差分
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*3月14日 衝背軍として[[別働第二旅団]](のちに[[別働弟一旅団]]に改称)が編成される(参軍[[黒田清隆]]、司令長官[[高島鞆之助]]、歩兵四個大隊と警視隊 計4千人) | *3月14日 衝背軍として[[別働第二旅団]](のちに[[別働弟一旅団]]に改称)が編成される(参軍[[黒田清隆]]、司令長官[[高島鞆之助]]、歩兵四個大隊と警視隊 計4千人) | ||
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明治12(1879)年<br> | 明治12(1879)年<br> | ||
− | *[[西南戦争]]戦戦没者の慰霊碑「[[ | + | *[[西南戦争]]戦戦没者の慰霊碑「[[屯田兵招魂碑]](屯田兵招魂之碑)」が札幌の[[偕楽園]]に建立される(明治41年中島公園、昭和9年中央区の護国神社境内に移設。題字は征討総督の有栖川宮) |
2013年9月28日 (土) 10:35時点における最新版
西南戦争に出征した[屯田兵]の動静を中心とする年表。
明治10(1877)年
- 1月30日 鹿児島で私学校生が集団決起、陸軍火薬庫など襲う
- 2月14日 黒田清隆が旧庄内士族のリーダーに手紙で、西郷らに同調しないよう要請
- 2月15日 西郷隆盛軍、鹿児島で決起(西南戦争ぼっ発)。1万5千人が熊本城・九州鎮台攻撃に向かう。函館に屯田兵一個小隊の派遣指令
- 2月19日 明治政府は「賊徒征討令」を発令、有栖川宮を征討総督とし、山県有朋、川村純義を参軍に、野津鎮雄を第一旅団、三好重臣を第二旅団の司令長官に任命。動員令を各鎮台に下す(実質的な総指揮者は内務卿)
- 2月22日 熊本城包囲戦始まる(~4月14日)
- 2月23日 京都・大本営から黒田清隆に至急出頭するよう電報
- 2月27日 屯田兵一小隊を函館警備に派遣(実際は人員補充のため)
- 3月 黒田清隆が征討参軍に就任
- 3月1~31日 田原坂での戦闘
- 3月13日 黒田清隆が京都の行在所宛て電報で、衝背軍による背面攻撃を建言
- 3月14日 衝背軍として別働第二旅団(のちに別働弟一旅団に改称)が編成される(参軍黒田清隆、司令長官高島鞆之助、歩兵四個大隊と警視隊 計4千人)
- 3月19日 別動第二旅団(後に別動第一旅団)の黒木隊・高島隊の計7百人が、日奈久南方などに上陸し、八代まで進撃。一方の西郷軍は永山盛弘率いる南下軍が川尻より進発
- 3月20〜25日 衝背軍と南下軍が宮原・鏡付近で遭遇し激戦
- 3月21日 黒田清隆が、歩兵・警視隊五百人を率いて日奈久に上陸
- 3月24〜25日 山田顕義以下の別働第二旅団、川路利良以下の別働第三旅団が、八代に上陸
- 3月26日 小川で激戦、政府軍側が勝利。盛弘軍は松橋に後退
- 3月30〜31日 松橋陥落
- 4月1日 永山盛弘軍が宇土でも敗北、緑川でにらみ合う
- 4月4日 西郷軍別働隊(辺見十郎太・別府晋介指揮)が人吉から八代に来襲、善戦するが、政府増援部隊に阻まれ、撤退
- 4月9日 黒田清隆が屯田兵出征準備の内命を下す。屯田事務局は函館派遣の小隊、急募した民間人も加え、堀基准陸軍大佐を本部長に、本部員17人、准陸軍少佐永山武四郎を大隊長に大隊付8人、准陸軍大尉門松経文以下、第一中隊(琴似)244人、同家村住義以下第二中隊(山鼻)239人、計645人で遠征軍を編成(645人中、130人は民間から急募した者。大隊が九州入りした後、東京で募集した夫卒50人が追加され、第一大隊の陣容は700人弱になった)
- 4月10日 堀基准大佐の指揮下、第一大隊総勢645人の屯田兵遠征軍が札幌出発。銭函泊
- 4月11日 小樽着。家村准大尉以下の函館派遣隊が本隊に編入される
- 4月12日 黒川通軌率いる別働第四旅団を加えた政府衝背軍が緑川渡河を開始
- 4月13日 永山盛弘が御船で自決
- 4月14日 衝背軍・第二旅団の山川浩(会津藩出身)率いる一隊が熊本城下に入り、熊本城の囲みが解ける
- 4月15日 黒田清隆が軍を率いて熊本城へ入城。やや遅れて入城した山県有朋と対面。夜、屯田兵遠征隊が汽船・太平丸で小樽を出航(函館警備隊の到着の遅れ、荷物の船積みに手間取り、4日間の足止めを食う)。小樽で船待ちの間に、夜、宿としていた金曇町の三宅屋で、発寒兵村の屯田兵(岩手県出身)が、二階に上がろうとしていた同村の中崎源五郎という男を射殺するという事件がぼっ発(犯人と被害者は隣家同士だが、反目し合っており、南部藩の秋田の藩攻撃を巡って激論の末、発砲。犯人は直ちに苗穂の監獄に収監。西南戦争後、銃殺される。中隊長の門松大尉の監督責任問題も浮上した)
- 4月17日 黒田清隆が政府に電報を送り参軍辞任を認めるよう要請
- 4月18日 屯田兵遠征隊が乗船した太平丸が、暴風のため佐渡島多田浦に寄港
- 4月23日 黒田清隆が征討参軍を辞任。屯田兵の遠征軍が熊本県百貫石港(熊本の西方)に上陸
- 4月27日 総督本営から「屯田兵は別働第二旅団に編入、八代口から人吉の西郷軍を攻撃すべし」の指令
- 4月28日 屯田兵遠征隊、小島町の宿営出発
- 4月29日 屯田兵遠征隊、宇土を経て八代に到着。屯田兵大隊小樽を出港
- 5月1~9日 別動第二旅団が球磨盆地に侵攻、主力は球磨川の南北両岸の街道を進撃したが、反政府軍の反撃で停滞。鹿児島への反政府軍奪還作戦開始
- 5月12日 別動第二旅団が人吉北西方面の山岳道を使い侵攻
- 5月19日 屯田兵遠征隊が大河内の西郷軍を攻撃、西郷軍敗走
- 5月22日 西郷軍が鉢窪岳付近で襲撃してきたが、応戦撃退
- 5月23日 屯田兵遠征隊がドウカク山で露営
- 5月26日 反政府軍の鹿児島奪還失敗
- 5月30日 屯田兵遠征隊がザレワラの西郷軍と激戦、敗走させる
- 5月31日 ダンゴイ山から西郷軍の潜む山田郷に「ロケット」を発射
- 6月1日 政府軍、人吉を一斉攻撃し約3時間で人吉を陥れる。屯田兵の遠征隊は山田郷に突入し人吉城攻撃を開始、玖摩川堤に向かおうとする西郷軍30人余と遭遇、激戦の末これを破る
- 6月4日 人吉占領、西郷軍人吉隊長が部下とともに別働第二旅団に降伏
- 6月12日 屯田兵遠征隊、観音坂に進軍し眼下の吉田郷を砲撃
- 6月21日 屯田兵遠征隊、吉田郷へ斥候を出したが西郷軍の狙撃に遭う
- 7月1日 山県有朋参軍・山田顕義少将が防御線を巡視
- 7月2~9日 屯田兵遠征隊、吉田村へ進出
- 7月10日 屯田兵遠征隊、吉田村を発進、並木ノ原で戦闘
- 7月11~20日 屯田兵遠征隊、小林・高原・陣跡山方面で戦闘
- 7月21日 屯田兵遠征隊、早朝の点呼中に襲撃を受け迎撃。野尻に入る
- 7月22~23日 屯田兵遠征隊、野尻付近で交戦
- 7月24日 各旅団が西郷軍の新しい拠点・都城を総攻撃。屯田兵遠征隊も参戦。西郷軍は敗走
- 7月25〜27日 宮崎県西部一帯で攻防戦
- 7月28日 屯田兵遠征隊が、別働第二旅団と交戦中の西郷軍を、背後から攻撃、敗走させる
- 7月29~30日 屯田兵遠征隊、宮崎北部へ進撃
- 7月31日 屯田兵遠征隊、佐土原に入る。西郷軍は一ツ瀬川対岸に砲台を設け防御
- 8月2日 一ッ瀬川を挟んで激戦。屯田兵遠征隊は先鋒で攻撃、渡河。敵を一掃して高鍋に突入。西郷軍撤退、延岡方面に撤退(屯田兵の勇猛な戦闘ぶりは、他の鎮台兵を驚かせた)
- 8月5日 屯田兵遠征隊、高鍋を発ち都於郡下へ
- 8月10日 旅団長から引き揚げ命令
- 8月11日 屯田兵遠征隊、都於郡を発ち高岡・有水へ
- 8月13日 屯田兵遠征隊、都城に到着
- 8月16日 屯田兵遠征隊、都城を発ち南西の福山へ
- 8月18日 屯田兵遠征隊、船で鹿児島市に移動
- 8月21日 汽船・金川丸に乗船し鹿児島を出港
- 8月22日 屯田兵遠征隊、神戸に寄港
- 8月28日 東京丸で神戸を出港(神戸出港以来、船内でコレラが蔓延、死者は14人に上った)
- 8月30日 屯田兵遠征隊が横浜に上陸し、列車で東京に到着。都内では待機中の屯田予備隊(664人)が一行を出迎え
- 9月1日 西郷軍、鹿児島にたどり着く
- 9月3日 明治天皇、吹上禁苑で屯田兵部隊および屯田兵予備隊を閲兵 慰労の勅語を賜る
- 9月22日 屯田兵遠征隊、屯田予備隊を伴い、秋津州丸に乗船して東京を出港
- 9月24日 西郷隆盛が鹿児島の城山で自決。西南戦争終了。西南戦争動員数は、政府側約6万8千人、西郷軍側約4万8千人(うち鹿児島県人約2万3千人)。死傷者は、政府側1万5802人、西郷軍側約2万人(うち鹿児島県人約8千人)
- 9月29日 屯田兵遠征軍が函館を経て小樽港へ入港。開拓使から調所廣丈権大書記官らが出迎え。銭函に一泊
- 9月30日 歓呼に迎えられ、札幌に凱旋。札幌本庁で凱旋の礼(遠征隊帰着後も屯田兵にコレラが蔓延、1年間の給助延長措置が取られた)
- 11月 戦死した屯田兵、九段の招魂社に合祀
- 12月 屯田予備兵条例公布
明治12(1879)年
[編集] 参考
- 古地図の散歩道/八代ヨリ人吉ニ至道程細図 『屯田』第53号・江口憲人執筆