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− | + | 野幌屯田兵の名簿の中に「桐野利春」という名前が載っています。 | |
西南戦争で戦死した西郷軍総司令・桐野利秋(中村半次郎・1838~1877)と名前が1字違い。 | 西南戦争で戦死した西郷軍総司令・桐野利秋(中村半次郎・1838~1877)と名前が1字違い。 | ||
屯田兵名簿によると、利春は明治元(1868)年生まれで、原籍地は鹿児島郡清水馬場町(現・鹿児島市清水町)番外地となっています。 | 屯田兵名簿によると、利春は明治元(1868)年生まれで、原籍地は鹿児島郡清水馬場町(現・鹿児島市清水町)番外地となっています。 | ||
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上は私のブログなのですが、コメント欄をごらんください。桐野の子孫を名乗られる方が現れ、桐野の息子二人が北海道江別市に屯田兵として移り住んだ、というお話だったんですね。これに中村太郎氏が、「利秋の息子ではなく利義の息子で、桐野の孫の話ではないか」と答えておられますが、私もそう思っていました。また南洲墓地の案内人をされていた湯場崎末次郎氏(故人)のサイトに、北海道から桐野の直系の4姉妹が訪れた旨、書かれていたこともありまして、子孫が北海道にいたことだけは確かです。野幌屯田兵が明治18年、19年に入地したというお話で、しかも桐野利春は明治元年生まれ。利義と同年代で、孫ではないですね。利義本人ではないように思われるのですが、あるいは、京都時代の愛人にできた実子が別にいた、という可能性もありそうに思えます。なにしろ、桐野利秋の明治以降の本宅は、清水馬場にありました。--[[利用者:Iratume|Iratume]] ([[利用者・トーク:Iratume|トーク]]) 2013年7月25日 (木) 08:38 (UTC) | 上は私のブログなのですが、コメント欄をごらんください。桐野の子孫を名乗られる方が現れ、桐野の息子二人が北海道江別市に屯田兵として移り住んだ、というお話だったんですね。これに中村太郎氏が、「利秋の息子ではなく利義の息子で、桐野の孫の話ではないか」と答えておられますが、私もそう思っていました。また南洲墓地の案内人をされていた湯場崎末次郎氏(故人)のサイトに、北海道から桐野の直系の4姉妹が訪れた旨、書かれていたこともありまして、子孫が北海道にいたことだけは確かです。野幌屯田兵が明治18年、19年に入地したというお話で、しかも桐野利春は明治元年生まれ。利義と同年代で、孫ではないですね。利義本人ではないように思われるのですが、あるいは、京都時代の愛人にできた実子が別にいた、という可能性もありそうに思えます。なにしろ、桐野利秋の明治以降の本宅は、清水馬場にありました。--[[利用者:Iratume|Iratume]] ([[利用者・トーク:Iratume|トーク]]) 2013年7月25日 (木) 08:38 (UTC) | ||
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