黒田清隆

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黒田清隆

黒田清隆 (くろだ きよたか) 天保11年10月16日(1840年11月9日)〜 明治33年(1900年)8月23日
黒田清隆は、薩摩藩士、陸軍軍人、政治家で、屯田兵制度の創設を主導した。
階級は陸軍中将、位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称仲太郎、了介。
幕末に薩摩藩士として薩長同盟のため奔走。明治元(1868)年から翌2年にかけての戊辰戦争では、北越から庄内までの戦線と箱館戦争で新政府軍参謀として指揮をとった。開拓次官として明治3(1870)年から北海道の開拓を指揮。開拓使の事実上のトップをつとめつつ、政府首脳として活躍。明治7(1874)年6月には屯田兵を創設して陸軍中将・屯田憲兵事務総理を兼務。8月には参議・開拓長官に就任。明治9(1876)年には日朝修好条規を締結し、翌10年の西南戦争では、敵軍の熊本城包囲を解き、功を立てた。明治11(1878)年、大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に、開拓使官有物払い下げ事件を起こして批判された。明治21(1888)年4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。

目次

経歴

業績・足跡

生い立ちと幕末の活動

天保11年(1840)に鹿児島城下、新屋敷町で薩摩藩士黒田仲左衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石という下級武士だった。長じて砲手になる。文久2年(1862)6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという(黒田自身は示現流門下でも有数の使い手だった)。 文久3年(1863)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学んだ。慶応2年(1866)の薩長同盟締結に際しては、薩摩側の使者として長州に赴き、大坂で西郷隆盛と木戸孝允の対面を実現させるなど尽力した。

戊辰戦争

 慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、山県有朋とともに、北陸道鎮撫総督高倉永祜の参謀に任命され、鯨波戦争に勝利した。北越戦争に際しては、長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え河井に書簡を送ったが届かなかった。長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山県に新政府軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。このとき長岡城が夜襲され、新政府軍主力は一時潰走したが、黒田は新発田藩を降ろし、新潟を占領して所期の目標を達した。
 越後の戦闘が決してから、黒田は秋田に上陸し、庄内藩を背後から攻略する作戦を立てた。ここに西郷が合流して秋田藩兵の疲弊を告げ、米沢を先に攻めるよう変更した。西郷と黒田は寛大策をもって臨み、米沢藩と庄内藩を帰順させた。9月27日に庄内の鶴岡城を接収して、この方面の戦闘を終わらせた。
 いったん鹿児島に帰り、翌明治2年(1869)1月に軍務官出仕に任命された。箱館戦争がはじまると、黒田は2月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、3月、東京を出港した。途中、宮古湾停泊中に宮古湾海戦に際会した。4月9日に上陸した山田顕義に続き、黒田も19日、江差に上陸して、旧幕府軍との最後の戦いの総指揮をとった。5月、旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て、助命のための内部工作を手配した。11日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。榎本武揚に降伏を勧め、17日に降伏させた。
 戦後は榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪したこともある。榎本問題は明治5年(1872)1月6日にようやく、榎本らを謹慎、その他は釈放として決着した。

開拓使と屯田兵

 戦後まもなく、明治2年(1869)1月22日に黒田は中山清(せい)と結婚した。黒田は当初、兵部省入りを希望していたが、7月、外務大丞に任命され、9月、兵部省入りし兵部大丞として手腕を振るった。しかし、樺太でのロシアの圧力が増したため、翌3年5月、樺太専任の開拓次官となった。この年7月からは樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。 10月20日に建議して、樺太は3年も持たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。
 明治4年(1871)年1月から5月まで、米国と欧州諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧 が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。
 明治6年(1873)2月、「樺太放棄に関する上書」を政府に提出。11月には岩倉具視右大臣に対して、屯田兵の創設を建議した。この建議は認められ、翌7年6月23日、黒田は陸軍中将となり、同時に開拓次官と北海道屯田憲兵事務総理を兼ねた。8月2日には、参議に列し、開拓長官に昇任した。このあと、黒田は榎本ら箱館で降った旧幕臣を、開拓使に登用している。
 なお、黒田は、ケプロンの献策にもとづき基盤整備事業を起こしたが、支出超過を招いたため苦慮し、明治6年に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。

外交と西南戦争

 明治6年の征韓論に際して、黒田は内治重視の立場から西郷らに反対した。明治7年の台湾出兵に際しても、ロシアの脅威をあげて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避けるため速やかに外交交渉に入ることを唱えた。この年、ロシアとの交渉にあたって、黒田は榎本武揚を使節に推薦して容れられ、榎本が特命全権公使として樺太・千島交換条約の交渉と締結に当たった。黒田は、明治8年(1875)の江華島事件をきっかけに、翌同9年2月、朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。
 樺太と千島は開拓使の管轄であるから、受理と明け渡しは黒田の職務であった。このとき黒田は樺太アイヌを北海道に強制移住させた。札幌本庁を預かっていた松本十郎は強制移住に反対して辞任した。
 明治10年(1877)、西南戦争が起きると、黒田は2月に海路鹿児島に至ってここを確保し、いったん長崎に引き上げた。3月14日、征討参軍に任命された。このとき熊本城は包囲され、北から来る山縣有朋の主力軍が解囲戦に苦戦していた。黒田は敵の背後をつくため八代の付近に上陸し、3月30日から交戦をはじめ、前進を続けて4月15日に熊本城に入った。翌16日、山縣と合流した当日に自らの辞任を請い、23日に辞令を受け取った。開拓使で黒田が育てた屯田兵は、入れ替わりに戦線に到着し、以後の戦闘で活躍した。

藩閥の重鎮

 明治11年(1878)年3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載る。黒田は辞表を提出したが、大久保の説得でこれを撤回した。岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤と大隈が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田がそのようなことをする人間でないと保証すると述べ、自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。川路は医師を伴って清の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認したのみで、これを病死であると結論付けたといわれる。同年5月、大久保利通が暗殺されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになった。
 明治14年(1881)、政府の開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このとき事業が赤字であったことを理由に、かなりの安値を付けた。黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者をあてるべきだとして優遇を弁護したが、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野勢力はこれを薩摩出身の政商・五代友厚のたくらみによるものだとして、激しく非難した(「開拓使官有物払下げ事件」)。大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治14年の政変で大隈を失脚させた。しかし、払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。
 醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年(1887)に第一次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて翌21年4月、第二代内閣総理大臣となった。在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布だったが、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。この憲法公布の翌日、鹿鳴館において、「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃された事件が起きたこともあり、明治 22年(1889)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官をおくという別の不平等をもってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2ヵ月間、三条実美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件((明治22年12月)を起こして非難を浴び、謹慎したという。

晩年

 首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治25年(1892)年8月8日、第二次伊藤内閣の逓信大臣になった。伊藤内閣のもとで日清戦争が起こったが、特に活躍することなく、明治28年(1895)に枢密院議長と(なった。明治26年頃から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。明治33年(1900)8月23日、脳出血で死去した。葬儀委員長は榎本武揚だった。
 薩摩閥の重鎮とはいえ、晩年は浮いた存在となったこともあり、旧幕臣との付き合いが濃密となった。特に外交分野などでは榎本武揚を重用するようになった。

公職

  • 内閣総理大臣

 第2代:1888年4月30日 - 1889年10月20日

  • 枢密院議長

 第6代:1894年3月17日 - 1900年8月25日

  • 逓信大臣

 第3代:1892年8月8日 - 1895年3月17日

  • 農商務大臣

 第3代:1887年9月17日 - 1888年4月30日

  • 開拓長官

 第3代:1874年 - 1882年

  • 開拓次官

 第2代:1870年 - 1874年

人物評、エピソード

栄典

  • 明治10年(1877)11月 勲一等旭日大綬章
  • 明治17年(1884)7月  伯爵
  • 明治28年(1895)8月  勲一等旭日桐花大綬章
  • 明治33年(1900)8月  大勲位菊花大綬章

親族

 妻の清は旗本の中山勝重の長女で黒田が29歳のときに数え年16で輿入れした。清の産んだ長男長女はいずれも夭折しており、黒田は明治元年生まれの清の妹百子を養女にしている。百子は成人後に、陸軍軍人の黒木為楨に嫁いだ。
 清は24歳の若さで肺の病により亡くなるが、その死に際しては黒田が殺害したものだという風聞が流れた。
 その後、黒田は41歳で材木商丸山伝右衛門の娘・滝子と再婚。娘の梅子と嗣子の清仲を授かり、梅子は後に榎本武揚の長男武憲と結婚している。
 清隆の死後、子の黒田清仲が爵位を襲爵した。しかし、生来病弱で独身のまま32歳で逝去した。清仲には嫡子がなかったため、陸軍軍人である黒木為楨の三男にあたる黒木清を黒田家の養嗣子として迎えた。

著作

  • 『環游日記』、1887年(NDLJP:40005791)

関連資料

  • 井黒弥太郎『黒田清隆』、人物叢書・吉川弘文館 1977年。新版1987年
  • 奥田静夫 『青雲の果て 武人黒田清隆の戦い』北海道出版企画センター 2007年
  • 『黒田清隆 歴代総理大臣伝記叢書二』 監御厨貴監修でゆまに書房 2005年
  • 「明治功臣録」ほかの明治・大正期刊行の伝記の復刻版

伝記

史跡、博物館

外部リンク

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