「黒田清隆」を編集中

移動: 案内検索

警告: ログインしていません。

編集すると、IPアドレスがこのページの編集履歴に記録されます。
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を保存して取り消しを完了してください。
最新版 編集中の文章
2行: 2行:
 
[[ファイル:Kuroda kiyotaka.JPG|x250px|right|黒田清隆]]
 
[[ファイル:Kuroda kiyotaka.JPG|x250px|right|黒田清隆]]
 
黒田清隆 (くろだ きよたか) 天保11年10月16日(1840年11月9日)〜 明治33年(1900年)8月23日<br>
 
黒田清隆 (くろだ きよたか) 天保11年10月16日(1840年11月9日)〜 明治33年(1900年)8月23日<br>
黒田清隆は、薩摩藩士、陸軍軍人、政治家で、屯田兵制度の創設を主導した。<br>
+
黒田清隆は、薩摩藩士、陸軍軍人、政治家で、屯田兵制度の創設を主導した。階級は陸軍中将、位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称仲太郎、了介。<br>
階級は陸軍中将、位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称仲太郎、了介。<br>
+
 
幕末に薩摩藩士として[[薩長同盟]]のため奔走。明治元(1868)年から翌2年にかけての[[戊辰戦争]]では、北越から庄内までの戦線と[[箱館戦争]]で新政府軍参謀として指揮をとった。[[開拓次官]]として明治3(1870)年から北海道の開拓を指揮。開拓使の事実上のトップをつとめつつ、政府首脳として活躍。明治7(1874)年6月には[[屯田兵]]を創設して陸軍中将・屯田憲兵事務総理を兼務。8月には参議・[[開拓長官]]に就任。明治9(1876)年には[[日朝修好条規]]を締結し、翌10年の[[西南戦争]]では、敵軍の熊本城包囲を解き、功を立てた。明治11(1878)年、[[大久保利通]]が暗殺されると、[[薩摩閥]]の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に、[[開拓使官有物払い下げ事件]]を起こして批判された。明治21(1888)年4月から内閣総理大臣。在任中に[[大日本帝国憲法]]の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、[[枢密院]]議長を歴任した。
 
幕末に薩摩藩士として[[薩長同盟]]のため奔走。明治元(1868)年から翌2年にかけての[[戊辰戦争]]では、北越から庄内までの戦線と[[箱館戦争]]で新政府軍参謀として指揮をとった。[[開拓次官]]として明治3(1870)年から北海道の開拓を指揮。開拓使の事実上のトップをつとめつつ、政府首脳として活躍。明治7(1874)年6月には[[屯田兵]]を創設して陸軍中将・屯田憲兵事務総理を兼務。8月には参議・[[開拓長官]]に就任。明治9(1876)年には[[日朝修好条規]]を締結し、翌10年の[[西南戦争]]では、敵軍の熊本城包囲を解き、功を立てた。明治11(1878)年、[[大久保利通]]が暗殺されると、[[薩摩閥]]の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に、[[開拓使官有物払い下げ事件]]を起こして批判された。明治21(1888)年4月から内閣総理大臣。在任中に[[大日本帝国憲法]]の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、[[枢密院]]議長を歴任した。
 
<br>
 
<br>
35行: 34行:
 
*1884(明治17)年  伯爵に
 
*1884(明治17)年  伯爵に
 
*1887(明治20)年  農商務大臣に 養女百子、黒木家に嫁ぐ
 
*1887(明治20)年  農商務大臣に 養女百子、黒木家に嫁ぐ
*1888(明治21)年  第2代内閣総理大臣に(在任期間 1888年4月30日〜1889年10月25日)
+
*1888(明治21)年  第2代内閣総理大臣に
 
*1889(明治22)年  [[大日本帝国憲法]]発布 枢密顧問官に
 
*1889(明治22)年  [[大日本帝国憲法]]発布 枢密顧問官に
 
*1892(明治25)年  逓信大臣
 
*1892(明治25)年  逓信大臣
74行: 73行:
 
 首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治25年(1892)年8月8日、第二次伊藤内閣の逓信大臣になった。伊藤内閣のもとで[[日清戦争]]が起こったが、特に活躍することなく、明治28年(1895)に[[枢密院]]議長と(なった。明治26年頃から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。明治33年(1900)8月23日、脳出血で死去した。葬儀委員長は[[榎本武揚]]だった。<br>
 
 首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治25年(1892)年8月8日、第二次伊藤内閣の逓信大臣になった。伊藤内閣のもとで[[日清戦争]]が起こったが、特に活躍することなく、明治28年(1895)に[[枢密院]]議長と(なった。明治26年頃から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。明治33年(1900)8月23日、脳出血で死去した。葬儀委員長は[[榎本武揚]]だった。<br>
 
 薩摩閥の重鎮とはいえ、晩年は浮いた存在となったこともあり、旧幕臣との付き合いが濃密となった。特に外交分野などでは榎本武揚を重用するようになった。<br>
 
 薩摩閥の重鎮とはいえ、晩年は浮いた存在となったこともあり、旧幕臣との付き合いが濃密となった。特に外交分野などでは榎本武揚を重用するようになった。<br>
 
== 公職 ==
 
 
*内閣総理大臣
 
 第2代:1888年4月30日 - 1889年10月20日
 
*枢密院議長
 
 第6代:1894年3月17日 - 1900年8月25日
 
*逓信大臣
 
 第3代:1892年8月8日 - 1895年3月17日
 
*農商務大臣
 
 第3代:1887年9月17日 - 1888年4月30日
 
*開拓長官
 
 第3代:1874年 - 1882年
 
*開拓次官
 
 第2代:1870年 - 1874年
 
<br>
 
  
 
== 人物評、エピソード ==
 
== 人物評、エピソード ==
 
=== 『府県長官銘々伝』(明治14年) ===
 
[[ファイル:Cov2_kuro.jpg|x350px|right|黒田清隆]]
 
 本伝員外の英傑。君は旧鹿児島藩士了介という。維新の際北陸道参謀の大任を受、総督を守護して北陸を下り維幕に参与して軍略を運らし諸藩の兵士を奨励して長岡の要害を抜、小千谷庁員等の難戦を経て終に会津の城下に逼り奥羽各地の賊を平げ鎮定の功を奏せしより明治の功臣に烈なり。官位正四位参議に昇り安富尊栄至れりと云べし。君は嘗て蝦夷地に志しあり。初め本庁を置るるに方り本官を以て曠漠 たる地を開き北強魯の侵掠を防ぎ今日の盛大に至れり。
 
(図版は国立国会図書館・近代デジタルライブラリーより転載)
 
 
 
=== 栄典 ===
 
=== 栄典 ===
 
*明治10年(1877)11月 勲一等旭日大綬章  
 
*明治10年(1877)11月 勲一等旭日大綬章  

tondenwikiへのすべての投稿は、他の利用者によって編集、変更、除去される場合があります。 あなたの投稿を、他人が遠慮なく編集するのを望まない場合は、ここには投稿しないでください。
また、投稿するのは、あなたが書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください (詳細はTondenwiki:著作権を参照)。 著作権保護されている作品を、許諾なしに投稿してはいけません!

中止 | 編集の仕方 (新しいウィンドウで開きます)
個人用ツール
名前空間

変種
操作
管理運営
案内
ツールボックス
屯田兵名簿データベース
屯田兵デジタル・アーカイブス