「高橋五郎左衛門」の版間の差分

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== 証言内容 ==
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#明治32年6月23日(旧暦の5月節句)に自分ら5人は祖先伝来の墳墓の地を藩れ、幾百里人跡未踏の僻地に入り、北門警備の重任を帯びて熊狐跳梁の未開地開墾の鍬を振り、屯田兵としての重任を果たそうと決意、北海道移住の壮途に就いたのである。この日、親戚知己や多数の村人に送られ、故郷の山々に名残を惜しみ舟町に着いた。これから川船で酒田港に下る予定である。春から雨がなく旱魃で、河川は減水して船底を擦るような状態であったが、昨夜の大雨で増水し、川船は矢を射つような速さで予定より早く大石団に着くことができた。その夜は大石団に泊まり、翌日酒田港に着いた。ここは県下の志願者35戸の屯田兵と家族が集合して山形県連隊区司令部の富樫軍曹が出張して宿舎その他の世話をしてくれた。
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#6月26日 酒田港に滞在、輸送船[[東部丸]]は神戸を出港、門司、新潟で屯田兵やその家族を乗船させ、最後の乗船港である酒田港に着いたが、波が荒く乗船することができずに碇泊することになった。翌27日もsくじつから暴風雨が強く、艀舟を出すことができず、風の静まるのを待って待機する。午後になって風が少し穏やかになったので乗船することになったが、まだ波が高く艀舟の動揺が激しく舟酔いとなり、嘔吐する者が続出した。それに本船もペンキの悪臭で半死半生の悲鳴を挙げて居る状態で悲惨なものであった。東部丸は夕刻小樽に向けて出帆したが風はやまず、相変わらず船の動揺ははげしい船中で我々の入家する兵屋の番号を抽選する。
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#6月29日 朝から小樽港に上陸を始めた。港は防波堤のため波は静かであった。剣淵、士別の各屯田兵幹部が出迎えに来ており、宿舎の案内をはじめ万端の世話をしてくれほっとした。6月30日 これより兵員家族は2日間に分かれて輸送されることに決まり、自分らは第1日に炭鉱貨車に乗り込む。当時は国有鉄道ではなく、炭鉱会社(北海道炭鉱鉄道会社)の石炭運搬用台車を利用したもので、無蓋台車に天幕を張り、ござを敷き、跪座する。この日は炎天焼く如しの日であったので、汽車が進行して冷風を受けかえって爽快を感ずる程であった。
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#午後4時旭川駅に到着し下車する。駅前で人員点呼を受ける。先住者の坪沼長作(元南沼原村長)藤木重次郎が出迎えて下され、異国で同胞人に逢えた時の気持ちはこんなものかと想う。その夜は駅前の三浦屋丸福旅館に宿する。当時旭川は荒涼とした原野で市街地を見ることのできるのは、1条、2条、3条通りの一部に過ぎなかったが、道路は碁盤の目に区切られていた。人家は希薄で旅館も三浦屋丸福旅館1軒で500人を収容することはできず、鮨詰めのような一夜を明かした。
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#7月1日 朝5時集合、前日のように無蓋台車に乗せられ剣淵に向かう。当時列車は蘭留までしか開通していなかったが、士別まで工事中のため和寒までは建設列車が往復していたので、屯田兵と家族たちは特別に建設列車を利用して和寒まで輸送してくれた。塩狩峠の峻坂は線路が敷設されて間もないため振動が激しく、機関車に給水車と1輌のの台車だけをつけ、漸く国境(塩狩峠)を越え和寒に到着した。和寒よりは只一筋の刈分道(仮設県道・現国道40号線)を家族と共に歩んだのである。和寒の山すそ伝いに進む道は、両側は未だ斧鉞の入らない原始林で、あたかも林のトンネルを通るようで昼なお暗く気のめいる道が続き、雑草は背丈をこえて生い茂り、人影などは全く見えない。泥炭地の荒れ道は連日の炎天に乾燥して道路は盛り上がり、土は丁度ゴムのようにブカブカして土煙をあげていた。この中を意気揚々と進む屯田兵もあれば、下駄ばき、ぞうりばきもあり、モンペ姿の母親、長袖のおたいこ帯の娘、菅笠を冠ったもの、こうもり傘をさすもの、かすりの着物や縞の筒袖、それぞれのお国の風俗そのままの姿の列が続いた。
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#途中ビバカラウシの近くにきて一軒の小屋を見ただけであった。こうしてビバカラウシの舟付場(旧剣淵東小学校の北)に着いた。ここで士別屯田の老幼、婦女子は別れて数隻の丸木舟に分乗して剣淵川を下っていった。舟付場で小休止した一行は三々五々只剣淵に向かって歩いた。剣淵市街の入り口線路東の旧市街には[[兵屋]]の建築に従事した大工、木挽の小屋であったのであろう掘立て小屋が10棟余あった。また、番外地(市街)には着手小屋のような商店が3戸あった。
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#中隊長はじめ隊付の将校、下士官は先着して北門の十字路にはイタドリでアーチを設け国旗を立てて、我々を勧化してくれた。第4中隊はこのアーチの前に、第3中隊はこれより南の大木(開拓記念木ヤチダモ)の下に集まって、中隊長の訓辞を受けた。
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[[Category:証言|たかはし]]

2017年9月3日 (日) 21:53時点における最新版

目次

[編集] プロフィール

高橋 五郎左衛門(明治32年7月入地 宮城県出身 兵屋番号324番)


[編集] 出典元

『剣淵町史』(1982年・昭和54年)

[編集] 要旨

  1. 北門警備の重任を背負う決意を込めて故郷を出発した
  2. 酒田港から小樽港までの輸送船の旅
  3. 小樽からの鉄道の旅
  4. 宿泊した旭川の街の様子
  5. 塩狩峠から和寒へ、家族らのさまざまな姿
  6. 剣淵到着、兵屋建築小屋など街の様子
  7. 歓迎の様子と中隊長の訓辞


[編集] 証言内容

  1. 明治32年6月23日(旧暦の5月節句)に自分ら5人は祖先伝来の墳墓の地を藩れ、幾百里人跡未踏の僻地に入り、北門警備の重任を帯びて熊狐跳梁の未開地開墾の鍬を振り、屯田兵としての重任を果たそうと決意、北海道移住の壮途に就いたのである。この日、親戚知己や多数の村人に送られ、故郷の山々に名残を惜しみ舟町に着いた。これから川船で酒田港に下る予定である。春から雨がなく旱魃で、河川は減水して船底を擦るような状態であったが、昨夜の大雨で増水し、川船は矢を射つような速さで予定より早く大石団に着くことができた。その夜は大石団に泊まり、翌日酒田港に着いた。ここは県下の志願者35戸の屯田兵と家族が集合して山形県連隊区司令部の富樫軍曹が出張して宿舎その他の世話をしてくれた。
  2. 6月26日 酒田港に滞在、輸送船東部丸は神戸を出港、門司、新潟で屯田兵やその家族を乗船させ、最後の乗船港である酒田港に着いたが、波が荒く乗船することができずに碇泊することになった。翌27日もsくじつから暴風雨が強く、艀舟を出すことができず、風の静まるのを待って待機する。午後になって風が少し穏やかになったので乗船することになったが、まだ波が高く艀舟の動揺が激しく舟酔いとなり、嘔吐する者が続出した。それに本船もペンキの悪臭で半死半生の悲鳴を挙げて居る状態で悲惨なものであった。東部丸は夕刻小樽に向けて出帆したが風はやまず、相変わらず船の動揺ははげしい船中で我々の入家する兵屋の番号を抽選する。
  3. 6月29日 朝から小樽港に上陸を始めた。港は防波堤のため波は静かであった。剣淵、士別の各屯田兵幹部が出迎えに来ており、宿舎の案内をはじめ万端の世話をしてくれほっとした。6月30日 これより兵員家族は2日間に分かれて輸送されることに決まり、自分らは第1日に炭鉱貨車に乗り込む。当時は国有鉄道ではなく、炭鉱会社(北海道炭鉱鉄道会社)の石炭運搬用台車を利用したもので、無蓋台車に天幕を張り、ござを敷き、跪座する。この日は炎天焼く如しの日であったので、汽車が進行して冷風を受けかえって爽快を感ずる程であった。
  4. 午後4時旭川駅に到着し下車する。駅前で人員点呼を受ける。先住者の坪沼長作(元南沼原村長)藤木重次郎が出迎えて下され、異国で同胞人に逢えた時の気持ちはこんなものかと想う。その夜は駅前の三浦屋丸福旅館に宿する。当時旭川は荒涼とした原野で市街地を見ることのできるのは、1条、2条、3条通りの一部に過ぎなかったが、道路は碁盤の目に区切られていた。人家は希薄で旅館も三浦屋丸福旅館1軒で500人を収容することはできず、鮨詰めのような一夜を明かした。
  5. 7月1日 朝5時集合、前日のように無蓋台車に乗せられ剣淵に向かう。当時列車は蘭留までしか開通していなかったが、士別まで工事中のため和寒までは建設列車が往復していたので、屯田兵と家族たちは特別に建設列車を利用して和寒まで輸送してくれた。塩狩峠の峻坂は線路が敷設されて間もないため振動が激しく、機関車に給水車と1輌のの台車だけをつけ、漸く国境(塩狩峠)を越え和寒に到着した。和寒よりは只一筋の刈分道(仮設県道・現国道40号線)を家族と共に歩んだのである。和寒の山すそ伝いに進む道は、両側は未だ斧鉞の入らない原始林で、あたかも林のトンネルを通るようで昼なお暗く気のめいる道が続き、雑草は背丈をこえて生い茂り、人影などは全く見えない。泥炭地の荒れ道は連日の炎天に乾燥して道路は盛り上がり、土は丁度ゴムのようにブカブカして土煙をあげていた。この中を意気揚々と進む屯田兵もあれば、下駄ばき、ぞうりばきもあり、モンペ姿の母親、長袖のおたいこ帯の娘、菅笠を冠ったもの、こうもり傘をさすもの、かすりの着物や縞の筒袖、それぞれのお国の風俗そのままの姿の列が続いた。
  6. 途中ビバカラウシの近くにきて一軒の小屋を見ただけであった。こうしてビバカラウシの舟付場(旧剣淵東小学校の北)に着いた。ここで士別屯田の老幼、婦女子は別れて数隻の丸木舟に分乗して剣淵川を下っていった。舟付場で小休止した一行は三々五々只剣淵に向かって歩いた。剣淵市街の入り口線路東の旧市街には兵屋の建築に従事した大工、木挽の小屋であったのであろう掘立て小屋が10棟余あった。また、番外地(市街)には着手小屋のような商店が3戸あった。
  7. 中隊長はじめ隊付の将校、下士官は先着して北門の十字路にはイタドリでアーチを設け国旗を立てて、我々を勧化してくれた。第4中隊はこのアーチの前に、第3中隊はこれより南の大木(開拓記念木ヤチダモ)の下に集まって、中隊長の訓辞を受けた。


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