「横山庚馬」の版間の差分

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:『屯田兵座談会 開拓血涙史』(1943年・昭和18年)
 
:『屯田兵座談会 開拓血涙史』(1943年・昭和18年)
  
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志願の動機について
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== 証言内容 ==
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 私の志願した動機は、皆さんのお話になったのとは一寸変ってゐるのであります。私の父は學校の教員でありましたから、私も矢張り、父の意思を継いで學校の教員にならうかと思ってをりましたし、父もさう考へてをった。で私等の小學校時代は、皆さんの内、古い御方は同じだらうと思ひますが、小學校は初等科、中等科、高等科の三階級になってゐて、初等科、中等科は六年づゝ、高等科は四年であって、中等科迄は各町村附近には、大抵あったが、高等科は縣に一個所乃至二個所しかなかった。勿論高等科に入る児童は、極めて少なく、まあ中等科を卒業すれぱ、それで普通の教育を受けたと考へる時代であったのであります。私が中等科を卒業したのが、十四の時であります。十五の時、一ヶ年遊び、十六の時父の奨めで、縣立の農業學校に入った。そこを卒業したところが、農學校の方で、私が校費生に選抜されたため、卒業後三ヶ年束縛されてしまって、師範學校に入る時機を失ってしまったのです。それで止むを得ず、今で云へぱ、准教員となり、學校に出てをったのであります。然し資格がないので、この資格をとりたいと思って、尋常科の試験を受けたところ、學科には首尾よく合格したが、實地試験にはれられてしまひ、目的を達することが出来なくなりました。そこで私は考へたのです、これはどうも、斯うして愚図々々してゐては、父も年をとるしどうにもならない。いっそのこと北海道に行って、屯田兵を志願したならば良いかも知れない。さうすれぱ、自分は農學校を卒業してゐるし、農業は少々無理でも出来ないことはない。殊に北海道は、北門警備を非常にやかましく云はれてをり、これは是非志願して見やうかう思って父に話をしたところ、父は一言の下に賛成してくれた。それで、早速その手続をとりました。その時、私は二十四歳であったが、徴兵検査の時には、今の規則はどう云ふ風になってゐるか判りませんが、その當時徴兵令第十七條により、「兵役を免除す」検査の結果かう云ふやうにだったのです。それで、私が屯田兵を志願しても、入れるかどうか危惧の念もあったので、父は私の弟と二人検査を受けさせることにしたのであります。<br> 
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 検査に行くと検査官が「どうもお前の身體では無理だからお前の弟を出したらどうか」と云ふのです。弟は私よりも非常に強健な身體でありましたが、恰度弟は睾丸炎を患ってゐたので、不合格となってしまひました。それで又私の検査を改めてして、たうたう乙種として合格したような譯であった。その時に、徴兵官は「お前は何を志願するか、何が一番好きか」と問ふので騎兵と述べた。すると徴兵官は「馬を扱ふのはなかなか骨が折れるぞ、若し騎兵にならなかったら何がよいか」と云ふので、私は「それなら志願しません」と云ひますと、それでは何んとかよく考へて置かうといふので、採否を待ってゐたら、都合よく騎兵に採用されました。<br> 
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 私には郷里には、殆んど縁者といふものはなかったので、皆さんのやうに引き止めるものもなく、誠に順調に北海道に移住して来たやうな次第であります。<br>
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[[Category:証言|よこやまこうま]]

2017年9月3日 (日) 21:57時点における最新版

目次

[編集] プロフィール

横山 庚馬(明治26年7月入地 鳥取県出身 兵屋番号88番)


[編集] 出典元

『屯田兵座談会 開拓血涙史』(1943年・昭和18年)

[編集] 要旨

志願の動機について


[編集] 証言内容

 私の志願した動機は、皆さんのお話になったのとは一寸変ってゐるのであります。私の父は學校の教員でありましたから、私も矢張り、父の意思を継いで學校の教員にならうかと思ってをりましたし、父もさう考へてをった。で私等の小學校時代は、皆さんの内、古い御方は同じだらうと思ひますが、小學校は初等科、中等科、高等科の三階級になってゐて、初等科、中等科は六年づゝ、高等科は四年であって、中等科迄は各町村附近には、大抵あったが、高等科は縣に一個所乃至二個所しかなかった。勿論高等科に入る児童は、極めて少なく、まあ中等科を卒業すれぱ、それで普通の教育を受けたと考へる時代であったのであります。私が中等科を卒業したのが、十四の時であります。十五の時、一ヶ年遊び、十六の時父の奨めで、縣立の農業學校に入った。そこを卒業したところが、農學校の方で、私が校費生に選抜されたため、卒業後三ヶ年束縛されてしまって、師範學校に入る時機を失ってしまったのです。それで止むを得ず、今で云へぱ、准教員となり、學校に出てをったのであります。然し資格がないので、この資格をとりたいと思って、尋常科の試験を受けたところ、學科には首尾よく合格したが、實地試験にはれられてしまひ、目的を達することが出来なくなりました。そこで私は考へたのです、これはどうも、斯うして愚図々々してゐては、父も年をとるしどうにもならない。いっそのこと北海道に行って、屯田兵を志願したならば良いかも知れない。さうすれぱ、自分は農學校を卒業してゐるし、農業は少々無理でも出来ないことはない。殊に北海道は、北門警備を非常にやかましく云はれてをり、これは是非志願して見やうかう思って父に話をしたところ、父は一言の下に賛成してくれた。それで、早速その手続をとりました。その時、私は二十四歳であったが、徴兵検査の時には、今の規則はどう云ふ風になってゐるか判りませんが、その當時徴兵令第十七條により、「兵役を免除す」検査の結果かう云ふやうにだったのです。それで、私が屯田兵を志願しても、入れるかどうか危惧の念もあったので、父は私の弟と二人検査を受けさせることにしたのであります。
 

 検査に行くと検査官が「どうもお前の身體では無理だからお前の弟を出したらどうか」と云ふのです。弟は私よりも非常に強健な身體でありましたが、恰度弟は睾丸炎を患ってゐたので、不合格となってしまひました。それで又私の検査を改めてして、たうたう乙種として合格したような譯であった。その時に、徴兵官は「お前は何を志願するか、何が一番好きか」と問ふので騎兵と述べた。すると徴兵官は「馬を扱ふのはなかなか骨が折れるぞ、若し騎兵にならなかったら何がよいか」と云ふので、私は「それなら志願しません」と云ひますと、それでは何んとかよく考へて置かうといふので、採否を待ってゐたら、都合よく騎兵に採用されました。
 

 私には郷里には、殆んど縁者といふものはなかったので、皆さんのやうに引き止めるものもなく、誠に順調に北海道に移住して来たやうな次第であります。


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