「徳田豊」の版間の差分

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(証言内容)
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(79歳のときの証言)
  
 
#私は加賀の大聖寺藩で、石川県の郡役所の募集に応募して、明治二十三年に入った。私の方の江沼郡からは、四十七戸来ました。それまでは石川県庁の収税部といって、今の税務署の前身の様なところに勤めていました。
 
#私は加賀の大聖寺藩で、石川県の郡役所の募集に応募して、明治二十三年に入った。私の方の江沼郡からは、四十七戸来ました。それまでは石川県庁の収税部といって、今の税務署の前身の様なところに勤めていました。

2013年8月10日 (土) 11:18時点における最新版

目次

[編集] プロフィール

徳田 豊 (明治23年5月南太田兵村入地 石川県出身 兵屋番号171番)

[編集] 出典元

『大田村のれきし』(1967年・昭和42年 太田村史編纂委員会)

[編集] 要旨

  1. 県庁収税部勤めから募集に応じた
  2. 酒田からは山形藩の人々が乗船した
  3. 入植時不足な物は総て厚岸で買い求めた
  4. 大雪で食物に困窮した
  5. お祭りの競馬が村の楽しみだった
  6. 馬産太田の起源について
  7. 戦前は軍馬市場が活発だった


[編集] 証言内容

(79歳のときの証言)

  1. 私は加賀の大聖寺藩で、石川県の郡役所の募集に応募して、明治二十三年に入った。私の方の江沼郡からは、四十七戸来ました。それまでは石川県庁の収税部といって、今の税務署の前身の様なところに勤めていました。
  2. 福井県の三国港に御用船が着いたので、そこから乗船しました。大きな船ではありませんでしたが鉄船で、途中能登をまわり新潟にとまり、そこから渡道する士族をのせました。酒田からは山形藩の人々を乗せて、厚岸に着いたのです。
  3. 兵屋は出来ていたので、くじをひいて番号によって、入る家をきめてもらい、下士官に引率されて行って、その番号の家に入りました。開墾道具、寝具、炊事具等は総て支給されたものですが、衣類は官給がなかったので、自分の持って来た物を使用したり、不足な物は総て厚岸から買って来て作りました。
  4. 食糧は一日米大人七合五勺塩菜料一銭五厘、十五才以下は米五合に塩菜料として一銭支給されました。入村した時は薯種も支給されましたので、入地した翌年から、大根だとか菜類だとか、薯葱類等の作物を厚岸へ売りに行ったものです。明治三十五年一月六日から大雪が降って、米の事が心配になり、乳呑子をもった親は心配のために乳があがった等の話もきいていました。その時は豆も食べましたし、鶏も食いつくしたものです。移住後私は直ぐに土産馬を買い入れて駄送用にしました。
  5. 当時の兵役は、現役三年予備役四年で七年間勤めたものです。当時村には軍医が一人居ましたので助かりました。当時の村の楽しみといいますと、豊受神社のお祭りの時に行なわれる、競馬でした、村の中隊本部のある所に競馬場を造ってそこで行ったものです。
  6. 牧場に入った馬というのは、当時道庁が持って来て、各町村に二頭位割当てて馬産の改良に勉めたもので、徳田牧場に入った馬は、トロッターでいわゆる中間種でした。鹿毛の五尺位の馬で、六頭位子馬を産みました。牝馬は十勝の種馬所から、アングロノルマン種が来て居ました。石沢さんの牧場に入った馬も、同様なものでこれが馬産太田村の基礎になって行ったことになります。        
  7. 戦前即ち軍国はなやかな時代でしたので、軍馬の需要も多かったわけで、毎年の様に村内で軍馬の購売が行なわれて居りました。良く騎兵将校が来村しては、馬を引付けさせ、大正の終り頃には三百円から三百五十円位で購入して行ったものです。購売官に随行して来た役人が、「何の某何百何十円」というと「承諾」と返事をして、その場で即決されるという様になっていました。


[編集] 参考


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