「徳田豊」を編集中
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#私は加賀の大聖寺藩で、石川県の郡役所の募集に応募して、明治二十三年に入った。私の方の江沼郡からは、四十七戸来ました。それまでは石川県庁の収税部といって、今の税務署の前身の様なところに勤めていました。 | #私は加賀の大聖寺藩で、石川県の郡役所の募集に応募して、明治二十三年に入った。私の方の江沼郡からは、四十七戸来ました。それまでは石川県庁の収税部といって、今の税務署の前身の様なところに勤めていました。 | ||
− | # | + | #福井県の三国港に御用船が着いたので、そこから乗船しました。大きな船ではありませんでしたが鉄船で、途中能戸をまわり新潟にとまり、そこから渡道する士族をのせました。酒田からは山形藩の人々を乗せて、厚岸に着いたのです。 |
#兵屋は出来ていたので、くじをひいて番号によって、入る家をきめてもらい、下士官に引率されて行って、その番号の家に入りました。開墾道具、寝具、炊事具等は総て支給されたものですが、衣類は官給がなかったので、自分の持って来た物を使用したり、不足な物は総て厚岸から買って来て作りました。 | #兵屋は出来ていたので、くじをひいて番号によって、入る家をきめてもらい、下士官に引率されて行って、その番号の家に入りました。開墾道具、寝具、炊事具等は総て支給されたものですが、衣類は官給がなかったので、自分の持って来た物を使用したり、不足な物は総て厚岸から買って来て作りました。 | ||
#食糧は一日米大人七合五勺塩菜料一銭五厘、十五才以下は米五合に塩菜料として一銭支給されました。入村した時は薯種も支給されましたので、入地した翌年から、大根だとか菜類だとか、薯葱類等の作物を厚岸へ売りに行ったものです。明治三十五年一月六日から大雪が降って、米の事が心配になり、乳呑子をもった親は心配のために乳があがった等の話もきいていました。その時は豆も食べましたし、鶏も食いつくしたものです。移住後私は直ぐに土産馬を買い入れて駄送用にしました。 | #食糧は一日米大人七合五勺塩菜料一銭五厘、十五才以下は米五合に塩菜料として一銭支給されました。入村した時は薯種も支給されましたので、入地した翌年から、大根だとか菜類だとか、薯葱類等の作物を厚岸へ売りに行ったものです。明治三十五年一月六日から大雪が降って、米の事が心配になり、乳呑子をもった親は心配のために乳があがった等の話もきいていました。その時は豆も食べましたし、鶏も食いつくしたものです。移住後私は直ぐに土産馬を買い入れて駄送用にしました。 |