宮岸良太郎

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目次

プロフィール

宮岸 良太郎(明治十八年七月入地 石川県出身 兵屋番号二二八番)


出典元

『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)

要旨

  1. 札幌へは豊平川沿いに歩いた。行軍、司令官閲兵、大演習は大変だった
  2. 養蚕の様子、冬の仕事を中隊長が斡旋してくれた
  3. 無肥料のためいろいろ種をまいてみても収穫できなかった

証言内容

  1. 屯田兵現役中の事柄で特に印象深く、今でもはっきりと記憶に残ってゐるものは當時の交通の状態と、稼檣の途に對する幹部の苦心である。當時札幌へ行くには江別、對雁より豊平川に沿ふて歩いたものだが、給養の場合は鐵道線路傅ひもした。札幌に出るといふても個人としてではなく、春秋の大演習とか八月に執行される司令官閣下の検閲とかいふ場合の行軍である。十一月三日には山鼻、琴似とかの札幌近在の屯田兵に交って屯田兵司令官閣下の閲兵を受けた。行軍として非常に難儀したのは明治二十年永山将軍が海外へ出張せられる際送別の為出札した時だ。あんなに苦労したことはない。
  2. 稼檣の途には幹部は非常に苦心した。養蚕に就いては桑園を設け各戸二段歩宛割當てられ、桑の木が育っても育たなくとも強制的に植えさせられた。麻も同様である。冬はよく山ごに出た。また新しく奥地に移住して来た屯田兵の荷物を請負ふて馬橇で運搬してやった事もあった。これ等は皆中隊長が斡旋して呉たものである。
  3. 農作物に就いても栗、蕎麦、いなきびなどと色々蒔いて見たが皆穫れなくなる。無論無肥料の為だ。現在よく穫れる土地は昔は穫れなかった所で、昔とれた所は今穫れない所が多い。
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