「大久保喜一郎」の版間の差分

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== 要旨 ==
 
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#子供心に新天地にあこがれたのが移住の動機
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#志願から採用まで
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#県令が告別の辞、餞別に忠君愛国の手斧
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#北方警備に若き血潮高鳴った
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##昼なお暗い原始林に驚く、初めての農業
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##辛酸なめたが、そのために志がくじけたことはない
  
 
== 証言内容 ==
 
== 証言内容 ==
  
 私の北海道移住の動機とも言うべきものは、未だ漸く十二、三歳の頃、学校の読方読本の中に北海道という題があり、その中に現在の北海道は、至って人口稀薄であるが、最も有望な将来を持つ土地柄である云々という一節があり、子供心にも非常にこの北海道という新天地に憧憬を持ったものである。まあ、これが今日あらしめた唯一の動機なのでしょう。<br>
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#私の北海道移住の動機とも言うべきものは、未だ漸く十二、三歳の頃、学校の読方読本の中に北海道という題があり、その中に現在の北海道は、至って人口稀薄であるが、最も有望な将来を持つ土地柄である云々という一節があり、子供心にも非常にこの北海道という新天地に憧憬を持ったものである。まあ、これが今日あらしめた唯一の動機なのでしょう。<br>
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#ところでその後十八歳の砌り、[[屯田兵募集]]の挙あるを聞き、自己の抱懐するところを父母に開陳したところが、幸いこれに同意してくれたので、[[郡役所]]を経由して県庁に手続をした。が、県庁からは梨の礫でなんの返事もない。それで今はもうほとんど忘れかけていた頃——時は明治二十年三月十五日、その日は西嶽神社の祭礼日であって、今やこれに出かけようとする折から——郡役所から使いが来て即刻出頭の旨を告げて行った。はて何事ならんとそのままお祭りをよして出てみると、「屯田兵に行くのだ……」と言われて受験してみると無事合格採用と決った。帰途長井属官から至急願書の提出方を注意され早速一切の手続をすまして、その日の到来を待つうち四月八日迄に鹿児島迄出向すべしという達があった。<br>
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#そこですぐさま行李匆々一家を挙げて、鹿児島へ出向、二、三日滞在するうち、県下応募の十一戸も集合したので小蒸気で鹿児島発肥後の百貫に到着、そこで[[御用船]][[日ノ出丸]]に乗船した。これより先、時の[[県令]][[渡辺千秋]]氏は、一同を県庁に引見し「皆様は昔の武士即ち士族で、百姓には慣れないことであろうが、兵役の関係は私から申すまでもなく、よくお分りのことと思うのでこの上は充分気をつけて規則を守り、大いに国家のために奮励して下さるよう、もちろん国家としては特種の恩典もあるのであるから、古の武士的精神を発揮し、一方健康に充分留意して働いて下さい云々」と、非常に丁寧な訓示に代わる一場の別辞を叙べ、最後に柄に忠君愛国と書かれた手斧一挺を賤別として与えられた。かくて郡役所の兵事課員及、県庁の同係員等に百貫まで見送られて郷国との永の別れを告げたのである。<br>
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#当時私は軍人志望であったため、北方の警備に任ずる身だと思うと、言い知れぬ喜悦に胸の若き血潮の高鳴りを禁じ得なかった。一週間目に[[小樽]]に上陸、鉄路[[琴似駅]]に到着すると、旧琴似の屯田幹部員に出迎えられ、それらの人達の案内で現在の土地に入ったのだが、途中の道路の悪さよりも何よりも、昼なお暗き[[原始林]]を見た時、一種意外の感に打たれずにはいなかった。まさかなんぽなんでもこうまでひどい荒山だとは夢想だにもしてなかった。百姓はもちろん初めてではあったが、国にいた時周囲が農村であったために、見様見真似で若干の知識を持っていたので、ちょっと聞くと大概要領を得て好都合であった。今日まで開拓についてはあらゆる辛酸を嘗めたが、そのために心志を苦しめるなどという事は毛頭なかった。<br>
  
 ところでその後十八歳の砌り、屯田兵募集の挙あるを聞き、自己の抱懐するところを父母に開陳したところが、幸いこれに同意してくれたので、郡役所を経由して県庁に手続をした。が、県庁からは梨の礫でなんの返事もない。それで今はもうほとんど忘れかけていた頃——時は明治二十年三月十五日、その日は西嶽神社の祭礼日であって、今やこれに出かけようとする折から——郡役所から使いが来て即刻出頭の旨を告げて行った。はて何事ならんとそのままお祭りをよして出てみると、「屯田兵に行くのだ……」と言われて受験してみると無事合格採用と決った。帰途長井属官から至急願書の提出方を注意され早速一切の手続をすまして、その日の到来を待つうち四月八日迄に鹿児島迄出向すべしという達があった。<br>
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[[Category:証言|おおくぼ]]
 
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 そこですぐさま行李匆々一家を挙げて、鹿児島へ出向、二、三日滞在するうち、県下応募の十一戸も集合したので小蒸気で鹿児島発肥後の百貫に到着、そこで御用船日ノ出丸に乗船した。これより先、時の県令渡辺千秋氏は、一同を県庁に引見し「皆様は昔の武士即ち士族で、百姓には慣れないことであろうが、兵役の関係は私から申すまでもなく、よくお分りのことと思うのでこの上は充分気をつけて規則を守り、大いに国家のために奮励して下さるよう、もちろん国家としては特種の恩典もあるのであるから、古の武士的精神を発揮し、一方健康に充分留意して働いて下さい云々」と、非常に丁寧な訓示に代わる一場の別辞を叙べ、最後に柄に忠君愛国と書かれた手斧一挺を賤別として与えられた。かくて郡役所の兵事課員及、県庁の同係員等に百貫まで見送られて郷国との永の別れを告げたのである。<br>
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 当時私は軍人志望であったため、北方の警備に任ずる身だと思うと、言い知れぬ喜悦に胸の若き血潮の高鳴りを禁じ得なかった。一週間目に小樽に上陸、鉄路琴似駅に到着すると、旧琴似の屯田幹部員に出迎えられ、それらの人達の案内で現在の土地に入ったのだが、途中の道路の悪さよりも何よりも、昼なお暗き原始林を見た時、一種意外の感に打たれずにはいなかった。まさかなんぽなんでもこうまでひどい荒山だとは夢想だにもしてなかった。百姓はもちろん初めてではあったが、国にいた時周囲が農村であったために、見様見真似で若干の知識を持っていたので、ちょっと聞くと大概要領を得て好都合であった。今日まで開拓についてはあらゆる辛酸を嘗めたが、そのために心志を苦しめるなどという事は毛頭なかった。<br>
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2013年7月29日 (月) 17:40時点における最新版

目次

[編集] プロフィール

大久保 喜一郎(明治20年5月入地 鹿児島県出身 兵屋番号103番)


[編集] 出典元

『新琴似百年史』(1986年・昭和61年)<『新琴似兵村史』(1936年・昭和11年)

[編集] 要旨

  1. 子供心に新天地にあこがれたのが移住の動機
  2. 志願から採用まで
  3. 県令が告別の辞、餞別に忠君愛国の手斧
  4. 北方警備に若き血潮高鳴った
    1. 昼なお暗い原始林に驚く、初めての農業
    2. 辛酸なめたが、そのために志がくじけたことはない

[編集] 証言内容

  1. 私の北海道移住の動機とも言うべきものは、未だ漸く十二、三歳の頃、学校の読方読本の中に北海道という題があり、その中に現在の北海道は、至って人口稀薄であるが、最も有望な将来を持つ土地柄である云々という一節があり、子供心にも非常にこの北海道という新天地に憧憬を持ったものである。まあ、これが今日あらしめた唯一の動機なのでしょう。
  2. ところでその後十八歳の砌り、屯田兵募集の挙あるを聞き、自己の抱懐するところを父母に開陳したところが、幸いこれに同意してくれたので、郡役所を経由して県庁に手続をした。が、県庁からは梨の礫でなんの返事もない。それで今はもうほとんど忘れかけていた頃——時は明治二十年三月十五日、その日は西嶽神社の祭礼日であって、今やこれに出かけようとする折から——郡役所から使いが来て即刻出頭の旨を告げて行った。はて何事ならんとそのままお祭りをよして出てみると、「屯田兵に行くのだ……」と言われて受験してみると無事合格採用と決った。帰途長井属官から至急願書の提出方を注意され早速一切の手続をすまして、その日の到来を待つうち四月八日迄に鹿児島迄出向すべしという達があった。
  3. そこですぐさま行李匆々一家を挙げて、鹿児島へ出向、二、三日滞在するうち、県下応募の十一戸も集合したので小蒸気で鹿児島発肥後の百貫に到着、そこで御用船日ノ出丸に乗船した。これより先、時の県令渡辺千秋氏は、一同を県庁に引見し「皆様は昔の武士即ち士族で、百姓には慣れないことであろうが、兵役の関係は私から申すまでもなく、よくお分りのことと思うのでこの上は充分気をつけて規則を守り、大いに国家のために奮励して下さるよう、もちろん国家としては特種の恩典もあるのであるから、古の武士的精神を発揮し、一方健康に充分留意して働いて下さい云々」と、非常に丁寧な訓示に代わる一場の別辞を叙べ、最後に柄に忠君愛国と書かれた手斧一挺を賤別として与えられた。かくて郡役所の兵事課員及、県庁の同係員等に百貫まで見送られて郷国との永の別れを告げたのである。
  4. 当時私は軍人志望であったため、北方の警備に任ずる身だと思うと、言い知れぬ喜悦に胸の若き血潮の高鳴りを禁じ得なかった。一週間目に小樽に上陸、鉄路琴似駅に到着すると、旧琴似の屯田幹部員に出迎えられ、それらの人達の案内で現在の土地に入ったのだが、途中の道路の悪さよりも何よりも、昼なお暗き原始林を見た時、一種意外の感に打たれずにはいなかった。まさかなんぽなんでもこうまでひどい荒山だとは夢想だにもしてなかった。百姓はもちろん初めてではあったが、国にいた時周囲が農村であったために、見様見真似で若干の知識を持っていたので、ちょっと聞くと大概要領を得て好都合であった。今日まで開拓についてはあらゆる辛酸を嘗めたが、そのために心志を苦しめるなどという事は毛頭なかった。
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