「ケプロン」を編集中
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ケプロンを招聘した開拓次官・[[黒田清隆]]は1873(明治6)年、[[屯田兵制度]]の創設を建議し、[[開拓長官]]に就任した翌年の1875(明治8)年には[[琴似]]に最初の[[屯田兵]]を入植させるが、この間、ケプロンは[[屯田兵]]による殖民政策に対してもさまざまな助言をした。<br> | ケプロンを招聘した開拓次官・[[黒田清隆]]は1873(明治6)年、[[屯田兵制度]]の創設を建議し、[[開拓長官]]に就任した翌年の1875(明治8)年には[[琴似]]に最初の[[屯田兵]]を入植させるが、この間、ケプロンは[[屯田兵]]による殖民政策に対してもさまざまな助言をした。<br> | ||
− | + | 1874(明治7)年5月から8月に及んだ第2次の北海道視察では、室蘭、札幌、小樽の入植候補地を調査した。小樽(現・高島、朝里の2個所)については用材と日常使う水の確保の面から、また、石狩川河口に近い予定地(註)については強い浜風の影響を開墾の障害として挙げた。<br> | |
[[琴似兵村]]の[[兵屋]]建設に当たっては、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる洋式の炉の採用など寒冷地仕様とすることを提言した。しかし、実際に作られた兵屋は、一部土壁で囲炉裏付きの純和風のものだったことから「薄紙様ノ家屋」と評した。後に[[江別兵村]]で米国式やロシア式の耐寒構造が一部採用されたが、費用がかかり過ぎるために普及せず、ケプロンの進言は生かされることはなかった。<br> | [[琴似兵村]]の[[兵屋]]建設に当たっては、煉瓦製のカッヘルと呼ばれる洋式の炉の採用など寒冷地仕様とすることを提言した。しかし、実際に作られた兵屋は、一部土壁で囲炉裏付きの純和風のものだったことから「薄紙様ノ家屋」と評した。後に[[江別兵村]]で米国式やロシア式の耐寒構造が一部採用されたが、費用がかかり過ぎるために普及せず、ケプロンの進言は生かされることはなかった。<br> | ||
農業については、寒冷地のために稲作は不適とし、麦類の栽培や牧畜の振興を柱とした米国式の営農を推奨した。禁止された稲作は、後に屯田兵によって普及のきっかけをつかむことになるが、プラウなどの農機具の導入や本州に比べて大規模な営農形態など、ケプロンの進言は北海道農業の基盤づくりにつながった面も多い。<br> | 農業については、寒冷地のために稲作は不適とし、麦類の栽培や牧畜の振興を柱とした米国式の営農を推奨した。禁止された稲作は、後に屯田兵によって普及のきっかけをつかむことになるが、プラウなどの農機具の導入や本州に比べて大規模な営農形態など、ケプロンの進言は北海道農業の基盤づくりにつながった面も多い。<br> |