森田武一郎

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目次

プロフィール

森田 武一郎 (南一已 明治28年5月入地 島根県出身 兵屋番号202番)

出典元

 『屯田』第17号 < 『屯田兵座談会』(昭和18年)

要旨

  1. 想像と違った現地、官に身を売っているのでどうにもならなかった
  2. 入植当時は無一文、ともかく土地が欲しかった
  3. 最初の収穫でソバ51俵、誰よりも早く追給地を開墾できた

証言内容

  1. ワシは油屋の生まれで、家はあまり豊かではなかった。郡役場から使令があり、屯田兵に志願したが、このとき、十二人受けて六人合格した。北海道へ行けば土地がもらえるというので、油屋に見切りをつけ渡道。農業を知らないワシには、想像もつかないものばかりだった。直径一メートル以上の大木が繁り、ササやぶのなかに三間に五間の木造柾ぶき平家の兵屋がぽつんとあるだけ。船のなかで考えたのとは、かなり違っていた。人間の生活できるところではなかったが、官に身を売っているので、どうにもならなかった。
  2. しかし、ワシには目的があった。土地が欲しかった。そして、生活の基盤を築きたかった。おおかたの人がそうであったように、ワシはほとんど金を持っていなかった。谷住郷村を出るとき、五人分の旅費として三十八円もらったが、境の港にくるまでに二十円以上使ってしまい、十何円かをふところに小樽に着いたが、小遣い銭に不自由し、扶助米を売って金をつくった。こんな具合いだから、入植当時は無一文。いつも小遣い銭に不自由した。
  3. 記憶にある最初の収穫は、五十一俵ソバをとったときだ。第一給与地は一町五反の面積であったが、この第一給与地を開墾し終わった順に第二給与地の開墾を許され、場所を選定することができることになっていたが、ワシは五十一俵の収穫で、みんなより早く第二給与地を開墾することができた。これは、農業を知らないワシには、大変うれしいことであり、自慢でもあった。船のなかだったと思うが、ある人から「ソバはまずササを焼いて、雨上がりをねらって種子をバラまけばとれるもんだ」と聞き、クワで開墾せず木を切り、ササを焼いて雨上がりの日に一俵だったか、ソバの種子をバラまいた。そしたら芽が出て、とれたとれた。まったく、いい気持ちだった。苦労は、入植したときから連続だったので、もう忘れてしまった


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