琴似兵村
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琴似兵村は、現在の札幌市西区琴似地区に開かれた最初の屯田兵村で、明治8(1875)年と翌年の2か年に、旧・会津藩士族ら東北、北陸地区など12道県から計240戸が入植した。
明治28(1895)年まで第一大隊第1中隊を編制し、西南戦争で戦功を上げた。屯田兵制度が廃止される明治37(1904)年に後備役が解かれるまで30年間もの長期にわたって服役した。
「最初の屯田兵」だけに導入間もない西洋式軍隊の訓練と開拓の試行錯誤をくぐり抜けただけに、その後各地に設置された兵村の指導者を数多く輩出するなど、北海道開拓のリーダー的役割を果たした。
札幌市西区の中心都市に発展した琴似地区には、地域の礎を築いた屯田兵ゆかりの史跡・神社も多く、子孫会による顕彰活動を核としたまちづくり事業も活発に行われている。
(写真は復元保存されている琴似屯田兵屋)
目次 |
[編集] 年表
主に『琴似屯田百年史』による。
- 明治7(1874)年 琴似村に兵屋208戸建築(11月)
- 明治8(1875)年 旧・館県及び宮城、青森、酒田三県の士族から屯田兵を募集(1月)、琴似村に屯田兵198戸が入地(5月)、屯田兵有志が仮学校を開設(7月)、新冠牧場から馬58頭が兵村に入る(9月)、発寒村に兵屋32戸建築(10月)
- 明治9(1877)年 第二次屯田兵が琴似に3戸、発寒に32戸入地(5月)、琴似、山鼻に蚕室を建て兵員家族に養蚕を指導(9月)、伊達藩有志が武早神社を創建
- 明治10(1877)年 西南戦争参戦のため第一大隊が札幌を出発(4月)、第一大隊が札幌に凱旋(9月)、戦死者7名が東京招魂社に合祀された(11月)
- 明治11(1878)年 製麻場、干麻場を建築(3月)、札幌偕楽園に屯田兵戦死者招魂碑建立(5月、翌年9月完成)
- 明治12(1879)年 大蔵卿・大隈重信と香港太守・ベンネッシーが兵村を視察(7月)
- 明治13(1880)年 イナゴの大襲来により農作物に甚大な被害(8月)、札幌〜手宮間の鉄道が開通し琴似に駐車場できる(11月)
- 明治14(1881)年 明治天皇の札幌行幸に際し警備に当たる(8,9月)、屯田兵家族の多い者を分けて篠路に移住させることになった(12月)用水路開削
- 明治16(1883)年 発寒に水田10町歩を共同耕作するも失敗
- 明治18(1885)年 中隊週番所を中隊本部と改称、兵員給与地のうち1,500坪を桑園とすることを決める(6月)
- 明治19(1886)年 茨戸街道、大排水溝が完成(11月)、新式ラッパ譜伝習のため一等軍曹2名を教導団に派遣(12月)
- 明治20(1887)年 新川運河を開削
- 明治21(1888)年 司法大臣・山田顕義が兵屋、開墾地を視察(8月)、琴似で藍5町歩、甜菜1畝を試作
- 明治22(1889)年 佐藤喜一郎が軽川で人食いクマを捕獲(4月)、琴似の山田貞介はじめ琴似屯田兵5名を含む曹長24名を免官し札幌農学校の兵学別科に入学(11月)
- 明治23(1890)年 戦術研究のため屯田兵士官を選抜し戸山学校に入学(14月)、兵村諮問会を設置(10月)
- 明治24(1891)年 現役満期となり琴似兵村が予備役に入る(4月)
- 明治25(1892)年 琴似兵村の地区改正により兵屋の移転開始
- 明治26(1893)年 発寒村開村記念碑を建立(8月)
- 明治28(1895)年 日清戦争に出征(4月)復員後、琴似屯田兵は後備役に入る(6月)兵村事業として製炭を開始(7月)
- 明治29(1896)年 最初の兵村監視区長が琴似兵村に置かれる(7月)
- 明治30(1897)年 琴似屯田兵の記念碑を建立(1月)武早神社を琴似神社と改称(6月)
- 明治33(1900)年 琴似村農会を設立(9月)
- 明治34(1901)年 兵村給与地の処分が自由となり保存登記(10月)
- 明治37(1904)年 日露戦争が起こり兵村公有財産で戦時公債1,900円を購入(2月)、琴似兵村に動員令(8月)
- 明治39(1906)年 琴似村に二級町村制施行(3月)、篠路屯田兵村が琴似村と合併(4月)
- 明治40(1907)年 兵村部落会が村長から公有財産を引き継ぐ(7月)
- 明治42(1909)年 購販会を設立し陸軍糧秣廠にエン麦を納入
- 明治44(1911)年 琴似神社が現在地に移転、保科正之公を合祀(7月)
- 大正 2(1913)年 山の手に北海道農試園芸場開設(4月)
- 大正 4(1915)年 琴似に初めて伝統がつく
- 大正 9(1920)年 日本製麻株式会社の琴似亜麻工場が完成(11月)、琴似村果樹蔬菜組合が発足(12月)
- 大正12(1923)年 琴似村に一級町村制施行、人口6,462人、道立工業試験場が開場(4月)
- 大正13(1924)年 琴似兵村五十年記念会結成(4月)、五十年記念塔と記念館が完成(8月)、五十年記念式典を挙行、「琴似兵村誌」刊行(9月)
- 大正14(1925)年 北海道農事試験場が琴似八軒に移転(2月)、発寒屯田兵が開村功労者・永田休蔵の碑を建立(9月)
- 昭和 8(1933)年 北海道宝石加工組合琴似工場が完成(4月)、北海道除虫菊工業組合琴似工場が完成(12月)
- 昭和12(1937)年 札幌製紙工場が琴似に完成
- 昭和17(1942)年 町制施行により琴似町となる(2月)
- 昭和19(1944)年 山田勝伴が「開拓使最初の屯田兵」を刊行(7月)
- 昭和30(1955)年 琴似町が札幌市と合併(3月)、琴似駅前大火(8月)
- 昭和34(1957)年 発寒移住記念碑を建立(9月)
- 昭和39(1964)年 屯田兵屋を琴似神社境内に移設復元(1月)文化財指定(10月)
- 昭和47(1972)年 第133番屯田兵屋の復元工事が完成(3月)
- 昭和48(1973)年 琴似屯田百年記念事業期成会が発足(3月)
- 昭和49(1974)年 百年記念事業としてケヤキ50本を植樹(4月)、屯田兵の二十四軒開拓記念碑を建立、屯田兵入植百年祭祀を挙行(5月)、「琴似屯田百年史」刊行、記念祝賀会を開催(11月)
- 昭和61(1986)年 新琴似開基百年記念式を開催(5月)
[編集] 出身地と入植
[編集] 出身地
琴似屯田兵のうち琴似兵村に入地した208人の出身地は、北海道の19人を含め12道県にまたがる。このうち宮城県が最多の100人で、戊申戦争後に青森県の斗南に移住した元会津藩士を加えた福島県出身者が57人にのぼる。発寒兵村は、岩手県19人と宮城県13人の計32人。
[編集] 募集・渡道
[編集] 軍務と出征
[編集] 軍務
[編集] 西南戦争
[編集] 日清戦争
明治28(1895)年3月、予備役についていた琴似屯田兵も日清戦争に動員命令が下り出征、東京で待機中に講和が成立し6月13日に復員した。同月25日で召集解除となった琴似屯田兵はこの日から後備役に編入された。従軍のため結果的に条例に定める期限を超えた4年3か月の予備役勤務となった。
[編集] 日露戦争
開戦後の明治37(1904)年3月末、琴似屯田兵は後備役満期となった。
[編集] 開墾と農業
[編集] 給与地
[編集] 作付
[編集] 潅漑・治水
[編集] 公有財産と自治活動
[編集] 公有財産
[編集] 自治とまちの変遷
[編集] 主な人物
[編集] 歴代の中隊長
屯田兵第一大隊第一中隊の中隊長は、次の8代にわたった。
- 初 代 門松経文 大尉 ( ~ )西南戦争で病死
- 第2代 税所篤彦 中尉 ( ~ )後の奈良県知事で、十津川移民に尽力
- 第3代 荒城重雄 大尉 ( ~ )
- 第4代 寺田貞一 中尉 ( )
- 第5代 岡 三郎 大尉 ( ~明治24年4月)
- 第6代 林 昌介 大尉 (明治24年4月~ )元室蘭屯田兵中隊長
- 第7代 粟飯原 (明治25年5月~ )
- 第8代 永井実英 (明治26年 ~ )
[編集] 屯田兵・中隊幹部
[編集] その他
[編集] 屯田兵名簿
[編集] 出来事・エピソード
[編集] 証言録
[編集] 伝統文化・芸能
[編集] 史跡・博物館
[編集] 史料・論文等
[編集] 子孫会・顕彰団体等