竹原岩吉

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目次

プロフィール

竹原 岩吉 (南一已 明治28年5月入地 富山県出身 兵屋番号281番)

出典元

 『屯田』第17号 < 『一已村開拓五十年記念誌』(昭和19年)

要旨

  1. 入植当初の炊き出しに食べ慣れない豚肉に閉口した
  2. 道らしい道はなく、父は迷って朝まで帰らなかった
  3. 2年目は米に稲きびを混ぜて食べた
  4. 当時の物価、米1俵が4円
  5. 機動演習で滝川に出かけた
  6. 馴れない農具、伐木に難儀した。木の多い土地が当たると開墾が遅れた

証言内容

  1. ところどころで申しあげているのですが、もちろん、これというお話もありません。これから申しあげる二、三のことは、私一人の経験ではなく、当地へ屯田兵としてこられた方々が、いちように味わわれた苦しみであり、楽しみであったのです。まず入植当初、一週間くらい(五日間)の間は、炊事道具、その他の物資配給がなかったために、経理部で炊き出しをしてくれました。この炊き出しというのが、およそわれわれの過去の食物と変わっていまして、ご飯は別に変わったことはありませんでしたが、お菜がふるっていました。大根の切り干しに豚の肉を刻んで煮込んだものです。ただこれだけなら、何の変わりもないようですが、その豚肉が、ごていねいにも毛までつけてあるのです。ただでさえ今まで、豚等はあまり食べたことがありませんでしたのに、これですから胸が悪いやら、口でもしゃもしゃするやら、ほとほと閉口したものです。
  2. この炊き出しを、五丁目の今の教圓寺あたりの経理部までとりに出かけたのですが、またそれがなかなかの苦労でして、本道はあるにはあったが通れる程のものではなく、丸太を横に並べた間道を、難儀しながら行ったものです。ことに夕方等であると道に迷って、晩飯をとりに出かけた私の父などは、朝になってやっと家にたどり着いたという始末です。こっけいなようではありますが、笑われない事実です。
  3. ついでに、それからの食物等の大略をお話してみますと、この炊き出しが一週間程つづいてから、飯米は一人大人六合(玄米七合五勺)、小人三合配給されましたが、家族の多い者はこれでは足りず、馬鈴薯、ソバの類を栽培、収穫して足しにしたものです。その次の年は、稲キビが米に次いでの主食物となりました。これは、ついて米に混ぜて炊くのですが、初めはちょっとおいしいようですが割りにあくどく、腹をいためたこともありました。なお副食物は、一日三銭の塩菜料を支給されて賄うのでした。
  4. 参考までに当時の物価を申しあげますと、米一俵四円、酒一升十二銭、出面賃七、八銭から十五銭、木炭一俵十八銭から二十二銭、薪一敷三十銭から三十五銭くらいのものでした。現在と比較して見て下さい。まるで大ケタ違いではありませんか。
  5. それから強い印象に残っていることですが、たしか三十一年ごろかと思います。機動演習で滝川に出かけて、初めて宿舎したことです。酒屋で大きな釜を借りてこれで飯を炊き、夜の十二時すぎになって、やっと夕飯が当たったことです。これで、軍隊の炊事ということを初めて知りました。あのときの酒屋は今ありますかどうか。また、あのとき借りた大釜は今、何を炊いているか、それは分からないですね。
  6. 次に開墾のことですが、農具は今まで生国で使用していたものとはだいぶん異なっていましたので、使いにくくて能率が上がらず困りました。たしか鋤のような物もあったようです。これは翼賛会主催の座談会(『屯田兵開拓敢闘録』参照)にも話したことですが、開墾には第一が伐木でありまして、この伐木には鋸を切らさねばならないのに、目立ての下手な者はそれができず、たいへん難儀をしたことです。それが、とくに木の多いような上地に当たっていた場合、まったく目もあてられぬ程でした。開墾が遅れて成績が上がらなければ、第二給与他の給与にも影響したことはもちろんです。

 
  (たけはら・いわきち=現稲穂町一丁目入植元屯田兵。富山県出身)

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