新琴似中隊本部襲撃事件
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新琴似中隊本部襲撃事件とは、新琴似屯田兵が入植して3年後の明治23(1890)年8月18日夜、第一大隊第三中隊本部(現・札幌市北区新琴似8条3丁目)の官舎にいた当時の中隊長・安東貞一郎大尉が銃撃された事件で、上官に対する暴行の罪に問われた7人の新琴似屯田兵が軍法会議で処罰された。給与米の一部を積み立てた備荒資金(積穀)の返還を求めた屯田兵と中隊長との対立が発端で、暴行事件のほか護送妨害で9人(うち2人は暴行との重犯)、命令違反で1人が処罰された。
事件に関する公的文書が見つからないため、銃撃の動機や発生の日時など不明な点が多い「屯田兵唯一の反乱事件」とされてきたが、平成27(2015)年に公開された『屯田兵司令部月報』の記述から、軍法会議の宣告(判決)内容が明らかになった。宣告によると、米価暴騰による生活の困窮から「積穀下げ戻し」を求めた新琴似屯田兵は、220人中170人にものぼり、銃撃事件の前段で中隊長との交渉や衝突があったことも明らかになった
積穀事件、積穀騒動とも呼ばれた。
(右の図は新琴似中隊本部の周辺図)
目次 |
暴行事件
軍法会議の宣告から
軍法会議宣告文によると、安東貞一郎中隊長の襲撃事件は、明治23(1890)年8月18日午後11時過ぎに起きた。主犯の黒田熊次郎ら7人が、銃や刀、棒などを持って(うち2人は徒手)中隊本部に押しかけ、中隊長の官舎に向けて黒田が銃弾4発を発砲し、うち3発が官舎に着弾した。中隊長が戸外に出て来たところで脅迫する計画だったが、突然の発砲に驚いた共犯者があわててその場から逃走し、結局全員が自宅に逃げ帰った。夜陰に紛れての犯行だったため、事件当初は犯人グループを特定できなかったが、黒田が大隊本部に自首し、共犯者の氏名と襲撃に至る状況を自白した。
士官の回顧談から
事件直後に見習士官として第三中隊に配属された琴似屯田兵出身の富田貞賢の回顧談(河野常吉編『札幌昔日譚』)によると、黒田らが中隊本部西側の中隊長官舎を取り囲むと、異常な気配に気付いた安東中隊長は、家族を腹ばいにさせ、抜剣して身構えた。数発の銃声を聞いた毛利秀次小隊長が中隊本部前で非常ラッパを吹き鳴らし、全員招集を命じた。兵員が集合するころには一味は姿を消し、威嚇発砲だったためか安東中隊長や家族らにけがはなかったという。
元中隊長の日記から
事件直後の様子については、初代中隊長で当時屯田兵監獄長だった三澤毅が、『諸扣帳(しょこうちょう)』と題した日記の中に綴っている。これによると、事件の翌日(8月19日)午後に第三中隊が琴似兵村を通過して札幌の大隊本部まで行き、取調を受けた。発端は「積置一件」と記している。
(右の文書は、事件直後の様子を初代中隊長の三澤毅が記述した『三澤日記』の一部)
<『三澤日記』読み解き> 明治二十三年八月 二十日 晴 近来一切降雨なく 日々雲霓を望む 昨日午後第三中隊 当村喇叭にて通行候に付 何事かと怪み居候処 今日風説に一昨夜 何者か中隊長役宅へ 発砲致候者有之に付 右取調大隊本部に於て有之に付 出札未だ帰隊不致由なり 積置一件より生候よし
動機と関連事件
軍法会議宣告文によると、新琴似中隊本部襲撃事件は、屯田兵各戸に対して家族構成に応じて支給された給与米の一部を一定の割合で天引き・積み立てしていた積穀の「下げ戻し」要求が発端となった。屯田兵の家族も含めて、米価の高騰による生活の困窮を理由にした嘆願要求の声が高まり、同調者は170人に上った。安東貞一郎中隊長は、「積穀は変災などに備えたものである」として拒否し、事件発生の11日前の8月7日には、大隊への嘆願書取り次ぎ要求も却下し、執拗に食い下がった総代の中嶋駒太郎を「抗命行為」として同月18日懲罰処分に付した。
これら一連の中隊長の対応に不満を抱いた黒田熊次郎ら9人は8月18日、中隊本部において「総代一人を処分するのは不当だ」と処分取り消しを求め、大隊の営倉に送られる中嶋を奪還しようと護送担当者らを殴るなどの暴行を加えた。
軍法会議
軍法会議は屯田司令部参謀・児玉徳太郎少佐を判士長(裁判長)として明治23(1890)年10月21日に開かれ、陸軍刑法に沿って直ちに刑が宣告された。刑罰の概要は次の通り
◎暴行事件
黒田熊次郎 無期流刑(官舎毀損については重禁固2月、罰金5円)
田中平蔵ら6名 各12〜15年流刑(同 重禁固1月、罰金2円)
◎ 護送妨害
黒田熊次郎、田中平蔵 各軽禁固3月
有田磯吉 軽禁固2年
中溝友吉ら6名 各軽禁固2月
◎ 命令違反
中嶋駒太郎 軽禁固3月
関連事項
積穀制度と屯田銀行の創設
屯田兵に対する給与米の一部を天引きの上、備荒資金として一括積み立てる「積穀制度」は、琴似に最初の屯田兵が入植した翌年の明治9(1876)年から始まり、当初は給与米の2割とされた。明治20(1887)年6月の改正で、天引きの割合は入植初年が1割5分、2年目からは3割と改定された。強制的な積立は、兵の不満を買う一方で、北海道における民間金融機関の先駆けとも言える「屯田銀行」の設立にもつながった。事件の翌年の明治24(1891)年6月設立の「屯田銀行」は、13個中隊の積立金13万円を資本に、その資金運用によって安全な利殖を目指すもので、「北海道商業銀行」と改称(明治33年1月)し、小樽銀行と合併しての「北海道銀行」(明治39年5月)を経て、戦時統合による北海道拓殖銀行(昭和19年)へとつながっていった。
米騒動との関連
新琴似中隊本部襲撃事件が起きた明治23(1890)年の1月には、富山県で前年の不作を背景に米騒動が起き、4月以降、鳥取県、新潟県、福島県、山口県、京都府、石川県、福井県、滋賀県、愛媛県、宮城県、奈良県などに拡大した。軍法会議の宣告によると、新琴似屯田兵170人が積穀の下げ戻しを求めたのは「近来米価騰貴し困難一方ならざる」ことが理由として挙げられており、本州の米騒動に連鎖・触発された可能性も否定できない。
黒幕疑惑
新琴似中隊本部襲撃事件について詳述した富田貞賢は、事件の黒幕について『札幌昔日譚』の中で次のように語っている。「黒幕」と名指しされた出田平馬は新琴似屯田兵の一人で、軍法会議の2日後に病気理由で免官となった。後に「留萌日日新聞」を創刊し、北海道議会議員も務めた。
「新琴似の一揆騒動は積穀一件に原因せり。(中略)叛者は多く正直者にて後に黒幕あり。出田平馬等これなり。しかしてこれ等黒幕の者共は、学校の窓よりひそかにこの状況を見物し居たる由なれども、知らぬと答えて免れたりという」
参考
- 『新琴似兵村記録』
- 『新琴似兵村史』(1936年、佐佐木俊郎・新琴似兵村50年記念会)
- 『新琴似百年史』(1986年、新琴似開基百年記念協賛会)
- 『さっぽろの昔話・明治編上』 (1978年、河野常吉編・みやま書房)
- 「新琴似中隊長襲撃事件に新事実」 (小林博明・『屯田』第41号)
- 「子思孫尊 土地にこだわり125年」 (黒田徹談・『屯田』第51号)