篠路屯田兵の銃自殺
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篠路屯田兵の銃自殺事件とは、明治22(1889)年に福岡県星野村(現・八代市)から篠路兵村に入植した江良清吉二等卒が翌23年10月5日、銃によって自殺した事件で、直前に隣の新琴似兵村で発生した新琴似中隊本部襲撃事件に関与したことが背景にあったとされるが、詳細は明らかでない。
墓碑
篠路屯田兵ゆかりの屯田墓地(石狩市花川東)にある江良清吉の墓碑正面には「義顕命(ぎけんのみこと)」と刻まれ、左右の側面には「屯田兵二等卒 江良清吉」「明治二十三年十月五日 自銃殺」と記されている。また、裏面には「なからへて むつみてふとり ならのみの ならぬものとも なりにけるかな」の辞世が刻まれている。墓碑は札幌軟石を用い、高さ約80センチ。
襲撃事件との関わり
新琴似中隊本部襲撃事件は、明治23(1890)年8月18日、積立米(積穀米)の扱いなどに不満を抱いた新琴似兵村の兵士が当時の第3中隊長・安東貞一郎大尉を銃撃した事件で、同年10月21日に開かれた屯田兵軍法会議で、首謀者とみなされた黒田熊次郎(鹿児島県出身)はじめ計7人に無期から12年の流刑が言い渡された。この事件には篠路屯田兵も数名関わったとされ、江良清吉はその一人として責任を取る形で自殺したのではないかとの説がある。ただし、江良の関与を明確に裏付ける記録はない。