「琴似屯田兵屋」の版間の差分
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琴似神社(札幌市西区琴似1条7丁目)の境内に復元保存されている屯田兵屋は、最も早い時期の兵屋の形態を残すものとして北海道より有形文化財に指定され、他の兵村の保存兵屋と比べて相違点が多いことが特徴とされてきた。特に際立っているのは、兵屋の標準型である「四畳半と六畳間」という畳座敷の間取りが琴似では「四畳半と八畳間」となっている点で、昭和39(1964)年の北海道教育委員会の調査から「定説を訂正する新発見」とされた。これ以来「琴似は八畳間」が定説として一般に知られるようになった。<br> | 琴似神社(札幌市西区琴似1条7丁目)の境内に復元保存されている屯田兵屋は、最も早い時期の兵屋の形態を残すものとして北海道より有形文化財に指定され、他の兵村の保存兵屋と比べて相違点が多いことが特徴とされてきた。特に際立っているのは、兵屋の標準型である「四畳半と六畳間」という畳座敷の間取りが琴似では「四畳半と八畳間」となっている点で、昭和39(1964)年の北海道教育委員会の調査から「定説を訂正する新発見」とされた。これ以来「琴似は八畳間」が定説として一般に知られるようになった。<br> | ||
− | しかし、北海道屯田倶楽部の検証班による現地調査と文献調査などから、八畳間は後代の改造によるもので、明治8(1875)年の入植時には六畳間であったことが明らかになった。 | + | しかし、北海道屯田倶楽部の検証班による現地調査と文献調査などから、八畳間は後代の改造によるもので、明治8(1875)年の入植時には六畳間であったことが明らかになった。<br> |
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+ | === 140番兵屋 === | ||
+ | 琴似屯田兵が入植する前年の明治7(1874)年11月、現在の琴似1条5丁目に建てられた兵屋番号140番で、佐藤喜一郎に給与された。昭和38(1963)年に当時残っていた建物の寄贈を子孫が申し出た。屯田兵子孫と北海道教育委員会などの協議の末、翌年に琴似神社境内に移設の上、欠落していた煙出しなどをほぼ原型に近い形で復元、保存された。復元に際して詳しい構造や仕様などが調査され、同年10月、北海道の有形文化財に指定された。<br> | ||
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+ | === 「六畳間」の裏付け史料 === | ||
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+ | 復元兵屋ガ不自然な構造であることなどから「八畳間」説は疑問視されてきたが、令和7(2025)年に建設当初は「六畳間」であったことを示す以下の史料が発見・確認された。 | ||
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+ | ==【府県達第1号】== | ||
+ | 開拓使が明治8(1875)年1月12日に、宮城、青森、酒田の3県に対して、琴似に入る最初の屯田兵の志願者の徴募を求めた公文書。願書提出の期限を同年2月28日とし、末尾に「四畳半+六畳間」の「屯田兵居宅略図」が添えられている。琴似兵屋200戸はこの通達を発する40日余り前の11月28日に完成しており、翌12月19日には完成した兵屋の写真が東京に送付された。<br> | ||
+ | 兵屋建築から志願者の徴募に至る経緯から、この「居宅略図」は兵屋完成後の間取りに基づいて描かれたもので、無償給与される住宅を具体的に示すことで志願の決断を促すために添付されたと考えられる。<br> | ||
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+ | ==【覚記】== | ||
+ | 綴じた和紙に筆書きされた備忘録で、表紙には「明治八年五月吉日 士族 大熊直哉(琴似屯田兵・大熊忠之助)」とある。屯田憲兵例則、屯田兵居宅略図、小樽港での上陸順序の順で諸規定が写し書きされ、続けて7月31日以降翌明治9(1876)年11月まで身辺の出来事などが綴られている。永らく琴似屯田歴史館の硝子ケース内に収められ、内容の詳しい検証は行われていなかった。<br> | ||
+ | この居宅略図には「府県達第1号」に記されていない「カベ」「便所」「流」「高間戸」「襖戸」「ヒラキ(開き戸)」などの説明書きが付されており、明治8(1875)年5月に兵屋に居住後、大熊が実際に目にした様を追記したと考えられる。<br> | ||
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+ | ==【開拓使最初の屯田兵】== | ||
+ | 琴似屯田二世の山田勝伴は、自著『開拓使最初の屯田兵 琴似兵村』(1944年刊)に最初の兵屋の仕様をめぐる開拓使内の論議の経過とともに、2枚の琴似兵屋の間取り図面を対比して掲載している。「初め決定せし兵屋」と題された図には、八畳間に土間、厩、暖炉が描かれている。一方の「出来上がりし兵屋」と題された図には、座敷が「四畳半+六畳間」として描かれている。<br> | ||
+ | 山田は琴似兵屋で生まれ育ち、自身の実体験とともに、北海道庁殖民部に勤めながら収集した膨大な資料を基に本書を執筆した。屯田兵史の原典的書物で内容の信頼度は極めて高く、間取り図の対比によって記述している点が注目される。<br> | ||
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2025年8月13日 (水) 10:33時点における版
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概要
琴似神社(札幌市西区琴似1条7丁目)の境内に復元保存されている屯田兵屋は、最も早い時期の兵屋の形態を残すものとして北海道より有形文化財に指定され、他の兵村の保存兵屋と比べて相違点が多いことが特徴とされてきた。特に際立っているのは、兵屋の標準型である「四畳半と六畳間」という畳座敷の間取りが琴似では「四畳半と八畳間」となっている点で、昭和39(1964)年の北海道教育委員会の調査から「定説を訂正する新発見」とされた。これ以来「琴似は八畳間」が定説として一般に知られるようになった。
しかし、北海道屯田倶楽部の検証班による現地調査と文献調査などから、八畳間は後代の改造によるもので、明治8(1875)年の入植時には六畳間であったことが明らかになった。
140番兵屋
琴似屯田兵が入植する前年の明治7(1874)年11月、現在の琴似1条5丁目に建てられた兵屋番号140番で、佐藤喜一郎に給与された。昭和38(1963)年に当時残っていた建物の寄贈を子孫が申し出た。屯田兵子孫と北海道教育委員会などの協議の末、翌年に琴似神社境内に移設の上、欠落していた煙出しなどをほぼ原型に近い形で復元、保存された。復元に際して詳しい構造や仕様などが調査され、同年10月、北海道の有形文化財に指定された。
「六畳間」の裏付け史料
復元兵屋ガ不自然な構造であることなどから「八畳間」説は疑問視されてきたが、令和7(2025)年に建設当初は「六畳間」であったことを示す以下の史料が発見・確認された。
【府県達第1号】
開拓使が明治8(1875)年1月12日に、宮城、青森、酒田の3県に対して、琴似に入る最初の屯田兵の志願者の徴募を求めた公文書。願書提出の期限を同年2月28日とし、末尾に「四畳半+六畳間」の「屯田兵居宅略図」が添えられている。琴似兵屋200戸はこの通達を発する40日余り前の11月28日に完成しており、翌12月19日には完成した兵屋の写真が東京に送付された。
兵屋建築から志願者の徴募に至る経緯から、この「居宅略図」は兵屋完成後の間取りに基づいて描かれたもので、無償給与される住宅を具体的に示すことで志願の決断を促すために添付されたと考えられる。
【覚記】
綴じた和紙に筆書きされた備忘録で、表紙には「明治八年五月吉日 士族 大熊直哉(琴似屯田兵・大熊忠之助)」とある。屯田憲兵例則、屯田兵居宅略図、小樽港での上陸順序の順で諸規定が写し書きされ、続けて7月31日以降翌明治9(1876)年11月まで身辺の出来事などが綴られている。永らく琴似屯田歴史館の硝子ケース内に収められ、内容の詳しい検証は行われていなかった。
この居宅略図には「府県達第1号」に記されていない「カベ」「便所」「流」「高間戸」「襖戸」「ヒラキ(開き戸)」などの説明書きが付されており、明治8(1875)年5月に兵屋に居住後、大熊が実際に目にした様を追記したと考えられる。
【開拓使最初の屯田兵】
琴似屯田二世の山田勝伴は、自著『開拓使最初の屯田兵 琴似兵村』(1944年刊)に最初の兵屋の仕様をめぐる開拓使内の論議の経過とともに、2枚の琴似兵屋の間取り図面を対比して掲載している。「初め決定せし兵屋」と題された図には、八畳間に土間、厩、暖炉が描かれている。一方の「出来上がりし兵屋」と題された図には、座敷が「四畳半+六畳間」として描かれている。
山田は琴似兵屋で生まれ育ち、自身の実体験とともに、北海道庁殖民部に勤めながら収集した膨大な資料を基に本書を執筆した。屯田兵史の原典的書物で内容の信頼度は極めて高く、間取り図の対比によって記述している点が注目される。