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(証言内容)
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== 証言内容 ==
 
== 証言内容 ==
  
 私は十九の年母と弟妹四人とを連れて屯田兵に応募して来たが、最初の考えでは三年位も辛棒して金を貯めて、故郷に帰る積りであった。さて来てみると、士族のこととて農業には全くの不馴、それに家族が少ないので、最初の給輿地開墾でさへ他の人より余程後れた。そう斯うしてゐ中に三年の月日も過ぎた。
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 私は十九の年母と弟妹四人とを連れて屯田兵に応募して来たが、最初の考えでは三年位も辛棒して金を貯めて、故郷に帰る積りであった。さて来てみると、士族のこととて農業には全くの不馴、それに家族が少ないので、最初の給輿地開墾でさへ他の人より余程後れた。そう斯うしてゐ中に三年の月日も過ぎた。<br>
 
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 こんな状態では今後の生活が不安になって来たので、何とかし転職して生活の基礎を確立したいと思ってゐた。丁度その頃第七師團が旭川に出来るといふので、中々景気が好かった。そこで旭川に行って向ふ扶持三十五圓といふ約束で山田長蔵の帳場に住み込んだ。<br>
 
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 けれども月給も中々呉れぬので、母に送金する事も出来なかった。こんな所に居ても将来の見込が無いので、今度は歌志内炭山石亀の帳場に入ったが、相変わらず金も残らずその上母も頻りに帰れといふので、一旦帰郷し妻を貰って又ぞろ夕張に行って坑夫となって働いた。これが二十六の年である。<br>
 こんな状態では今後の生活が不安になって来たので、何とかし転職して生活の基礎を確立したいと思ってゐた。丁度その頃第七師團が旭川に出来るといふので、中々景気が好かった。そこで旭川に行って向ふ扶持三十五圓といふ約束で山田長蔵の帳場に住み込んだ。
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 その中に日清戦役が起き、召集を受け東京まで出たが、講和になったので其處から引返し野幌に帰って来た。帰村後は一意専心農業を励んだが、畑を作ってゐる許りでは到底生活が出来ぬので、桑原甚五郎が資金を出して呉れたのを幸ひ、共同して屠殺場を経営して、豚、馬、鶏などを買ひ集め、つぶして札幌狸小路のカネシメ肉店に送ってゐた。<br>
 
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 そんな生活を可成長い間やってゐたが、また幌内方面に行ってゐる間に日露戦役起り再び召集せられて旅順に向った。當時旅順攻撃は非常な犠牲を拂ひ大勢遂に吾に帰し、翌年一月始陥落したので、十二日まで幾千の戦死者を整理し、十三日奉天に向け出発、夫からは奉天職に参加した。毎日十里以上の行軍を続け大石橋其他に於て数回戦闘をなし、三月十日奉天総攻撃第一線に就き各方面の戦闘に参加したが、同日奉天を占領し其後は守備をやってゐた。数回の戦闘に身に微傷だに負はなかったのは、全く天佑と称すべきものだ。その年十月には休戦命令下り、翌年三月凱旋した。<br>
 
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 けれども月給も中々呉れぬので、母に送金する事も出来なかった。こんな所に居ても将来の見込が無いので、今度は歌志内炭山石亀の帳場に入ったが、相変わらず金も残らずその上母も頻りに帰れといふので、一旦帰郷し妻を貰って又ぞろ夕張に行って坑夫となって働いた。これが二十六の年である。
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 その中に日清戦役が起き、召集を受け東京まで出たが、講和になったので其處から引返し野幌に帰って来た。帰村後は一意専心農業を励んだが、畑を作ってゐる許りでは到底生活が出来ぬので、桑原甚五郎が資金を出して呉れたのを幸ひ、共同して屠殺場を経営して、豚、馬、鶏などを買ひ集め、つぶして札幌狸小路のカネシメ肉店に送ってゐた。
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 そんな生活を可成長い間やってゐたが、また幌内方面に行ってゐる間に日露戦役起り再び召集せられて旅順に向った。當時旅順攻撃は非常な犠牲を拂ひ大勢遂に吾に帰し、翌年一月始陥落したので、十二日まで幾千の戦死者を整理し、十三日奉天に向け出発、夫からは奉天職に参加した。毎日十里以上の行軍を続け大石橋其他に於て数回戦闘をなし、三月十日奉天総攻撃第一線に就き各方面の戦闘に参加したが、同日奉天を占領し其後は守備をやってゐた。数回の戦闘に身に微傷だに負はなかったのは、全く天佑と称すべきものだ。その年十月には休戦命令下り、翌年三月凱旋した。
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 帰ってから今度こそ農業をやる決心がついたので、貰った土地は弟にゆづり、自分は二百圓の賜金を資として土地を借り、専心働いた為多少の余裕も出来、新たに土地を買求めたりして生活の土臺を造った。大正十二年六月産業組合が組織せられ幹事として居ること二ケ年、三年目には理事に當選、一昨年まで組合長として働いた。その後、組合長と専務が分かれることになったので、鈴木勝二氏を組合長に自分は専務として今日に及んでいる。
 
 帰ってから今度こそ農業をやる決心がついたので、貰った土地は弟にゆづり、自分は二百圓の賜金を資として土地を借り、専心働いた為多少の余裕も出来、新たに土地を買求めたりして生活の土臺を造った。大正十二年六月産業組合が組織せられ幹事として居ること二ケ年、三年目には理事に當選、一昨年まで組合長として働いた。その後、組合長と専務が分かれることになったので、鈴木勝二氏を組合長に自分は専務として今日に及んでいる。
 
 
 
 

2013年5月8日 (水) 13:25時点における版

目次

プロフィール

岡 順一 (明治十九年五月入地 山口県出身 兵屋番号一七二番)


出典元

『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)

要旨

証言内容

 私は十九の年母と弟妹四人とを連れて屯田兵に応募して来たが、最初の考えでは三年位も辛棒して金を貯めて、故郷に帰る積りであった。さて来てみると、士族のこととて農業には全くの不馴、それに家族が少ないので、最初の給輿地開墾でさへ他の人より余程後れた。そう斯うしてゐ中に三年の月日も過ぎた。
 こんな状態では今後の生活が不安になって来たので、何とかし転職して生活の基礎を確立したいと思ってゐた。丁度その頃第七師團が旭川に出来るといふので、中々景気が好かった。そこで旭川に行って向ふ扶持三十五圓といふ約束で山田長蔵の帳場に住み込んだ。
 けれども月給も中々呉れぬので、母に送金する事も出来なかった。こんな所に居ても将来の見込が無いので、今度は歌志内炭山石亀の帳場に入ったが、相変わらず金も残らずその上母も頻りに帰れといふので、一旦帰郷し妻を貰って又ぞろ夕張に行って坑夫となって働いた。これが二十六の年である。
 その中に日清戦役が起き、召集を受け東京まで出たが、講和になったので其處から引返し野幌に帰って来た。帰村後は一意専心農業を励んだが、畑を作ってゐる許りでは到底生活が出来ぬので、桑原甚五郎が資金を出して呉れたのを幸ひ、共同して屠殺場を経営して、豚、馬、鶏などを買ひ集め、つぶして札幌狸小路のカネシメ肉店に送ってゐた。
 そんな生活を可成長い間やってゐたが、また幌内方面に行ってゐる間に日露戦役起り再び召集せられて旅順に向った。當時旅順攻撃は非常な犠牲を拂ひ大勢遂に吾に帰し、翌年一月始陥落したので、十二日まで幾千の戦死者を整理し、十三日奉天に向け出発、夫からは奉天職に参加した。毎日十里以上の行軍を続け大石橋其他に於て数回戦闘をなし、三月十日奉天総攻撃第一線に就き各方面の戦闘に参加したが、同日奉天を占領し其後は守備をやってゐた。数回の戦闘に身に微傷だに負はなかったのは、全く天佑と称すべきものだ。その年十月には休戦命令下り、翌年三月凱旋した。
 帰ってから今度こそ農業をやる決心がついたので、貰った土地は弟にゆづり、自分は二百圓の賜金を資として土地を借り、専心働いた為多少の余裕も出来、新たに土地を買求めたりして生活の土臺を造った。大正十二年六月産業組合が組織せられ幹事として居ること二ケ年、三年目には理事に當選、一昨年まで組合長として働いた。その後、組合長と専務が分かれることになったので、鈴木勝二氏を組合長に自分は専務として今日に及んでいる。  

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