「安東貞一郎」の版間の差分
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安東 貞一郎(あんどう ていいちろう) 1856(安政3)年4月7日〜1905(明治43)年4月8日 | 安東 貞一郎(あんどう ていいちろう) 1856(安政3)年4月7日〜1905(明治43)年4月8日 | ||
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*1856(安政3)年 4月7日、秋田県南秋田郡秋田保戸野愛宕町生まれ。 | *1856(安政3)年 4月7日、秋田県南秋田郡秋田保戸野愛宕町生まれ。 | ||
*1889(明治22)年 5月17日 陸軍歩兵中尉から屯田兵中尉に転任 | *1889(明治22)年 5月17日 陸軍歩兵中尉から屯田兵中尉に転任 | ||
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*1892(明治25)年 2月18日 屯田歩兵大尉 | *1892(明治25)年 2月18日 屯田歩兵大尉 | ||
*1895(明治28)年 4月25日 屯田歩兵少佐 | *1895(明治28)年 4月25日 屯田歩兵少佐 | ||
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== 業績 == | == 業績 == | ||
− | : | + | :水はけの悪い低湿地のために開拓が難航した新琴似兵村の排水事業に取り組み、掘削した人工水路「[[安春川]]」の名称も安東の名に由来する。 |
− | : | + | :新琴似兵村の特産品ともなった[[新琴似大根]]の作付けを指導奨励した。 |
== 受賞歴 == | == 受賞歴 == | ||
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*<span style="color:red">模範中隊長</span> | *<span style="color:red">模範中隊長</span> | ||
− | : | + | :[[新琴似中隊本部襲撃事件]]の当事者ともなったが、『新琴似兵村会記録』では「人格、識見、計画は他にその類を見ない」と高く評価され、屯田兵幹部に関する記録でも「美唄の石川中隊長と並ぶ模範中隊長」と記述されている。 |
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== 伝記 == | == 伝記 == | ||
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+ | 『[[新琴似兵村会記録]]』に「歴代の中隊長とその治蹟感」と題した人物評が記されている。以下は安東貞一郎に関する全文。 | ||
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+ | 安東貞一郎氏は三代目の中隊長であったが、なんといっても歴代の中隊長の中では一番光っていた。産業に、土功に、道路に氏の力に負うもの枚挙にいとまない位だ。実に氏の如きは模範屯田中隊長として美唄の川中中隊長と併称せられる位であった。が、惜しむべきは明治三十(註:原文のまま)年の[[積穀事件]]では一寸味噌付けた感がないではないが、それはそれとしてともかく氏の功労は認すべからざるものがある。夙(つと)に道内に定評のある[[新琴似大根]]の今日あるは氏の指導奨励に待つところ大なるものあり。四番通より樽川に通ずる所謂樽川道路の如きも氏の手になるところであり、又、今日[[安春川]]の名残を残しているあたり永遠に氏の功績を物語るであろう。 | ||
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2023年7月16日 (日) 12:20時点における最新版
安東 貞一郎(あんどう ていいちろう) 1856(安政3)年4月7日〜1905(明治43)年4月8日
明治期の職業軍人で、屯田兵第一大隊第三中隊(新琴似中隊)の中隊長時代に、排水事業として安春川の開削を手がけた。明治23(1890)年の新琴似中隊本部襲撃事件で屯田兵の発砲を受け、被害はなかったが、重謹慎処分に処された。
大佐にまで昇進し、退官後は香川県に在住した。
目次 |
[編集] 経歴
- 1856(安政3)年 4月7日、秋田県南秋田郡秋田保戸野愛宕町生まれ。
- 1889(明治22)年 5月17日 陸軍歩兵中尉から屯田兵中尉に転任
- 1890(明治23)年 8月18日(註) 新琴似中隊本部襲撃事件
- 1892(明治25)年 2月18日 屯田歩兵大尉
- 1895(明治28)年 4月25日 屯田歩兵少佐
- 1898(明治31)年 1月21日 札幌大隊司令官・少佐
- 1902(明治35)年 5月29日 第12連隊(香川県丸亀)大隊長・少佐
- 1904(明治37)年 台湾守備隊大隊長・中佐
- 1905(明治38)年 6月8日 第54連隊(香川県善通寺)隊長・大佐
- 1910(明治43)年 4月8日 香川県において54歳で死去
【参考文献】 『新琴似百年史』
[編集] 業績
[編集] 受賞歴
[編集] 人物評、エピソード
- 模範中隊長
- 新琴似中隊本部襲撃事件の当事者ともなったが、『新琴似兵村会記録』では「人格、識見、計画は他にその類を見ない」と高く評価され、屯田兵幹部に関する記録でも「美唄の石川中隊長と並ぶ模範中隊長」と記述されている。
[編集] 伝記
『新琴似兵村会記録』に「歴代の中隊長とその治蹟感」と題した人物評が記されている。以下は安東貞一郎に関する全文。
安東貞一郎氏は三代目の中隊長であったが、なんといっても歴代の中隊長の中では一番光っていた。産業に、土功に、道路に氏の力に負うもの枚挙にいとまない位だ。実に氏の如きは模範屯田中隊長として美唄の川中中隊長と併称せられる位であった。が、惜しむべきは明治三十(註:原文のまま)年の積穀事件では一寸味噌付けた感がないではないが、それはそれとしてともかく氏の功労は認すべからざるものがある。夙(つと)に道内に定評のある新琴似大根の今日あるは氏の指導奨励に待つところ大なるものあり。四番通より樽川に通ずる所謂樽川道路の如きも氏の手になるところであり、又、今日安春川の名残を残しているあたり永遠に氏の功績を物語るであろう。
[編集] 言葉
[編集] 関連資料
- 『新琴似百年史』
- 『新琴似兵村会記録』