「新琴似兵村」を編集中
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− | + | 新琴似兵村は、現在の札幌市北区新琴似地区に開かれた屯田兵村で、明治20(1887)年と翌年の2か年に、中国、九州地区など8県から計22戸が入植した。<br> | |
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札幌では琴似兵村(第1中隊)、山鼻兵村(第2中隊)に続く3番目の兵村で、明治28(1895)年まで第一大隊第3中隊を編制し、その後は屯田兵制度が廃止される明治37(1904)年まで新琴似屯田兵は後備役を務めた。<br> | 札幌では琴似兵村(第1中隊)、山鼻兵村(第2中隊)に続く3番目の兵村で、明治28(1895)年まで第一大隊第3中隊を編制し、その後は屯田兵制度が廃止される明治37(1904)年まで新琴似屯田兵は後備役を務めた。<br> | ||
入植当時は鬱蒼とした樹林地帯だったが、比較的良い土壌に恵まれたことから農業は順調に発展した。<br> | 入植当時は鬱蒼とした樹林地帯だったが、比較的良い土壌に恵まれたことから農業は順調に発展した。<br> | ||
大東亜戦争の終結後は、一大住宅街へと変容し、札幌市の有形文化財として保存された中隊本部や、農業排水溝として屯田兵によって掘削された安春川などに、兵村の名残をとどめている。<br> | 大東亜戦争の終結後は、一大住宅街へと変容し、札幌市の有形文化財として保存された中隊本部や、農業排水溝として屯田兵によって掘削された安春川などに、兵村の名残をとどめている。<br> | ||
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== 年表 == | == 年表 == | ||
新琴似兵村史。<br> | 新琴似兵村史。<br> | ||
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== 出身地と入植 == | == 出身地と入植 == | ||
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=== 出身地 === | === 出身地 === | ||
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新琴似屯田兵は、明治20(1887)年の146人と翌明治21(1888)年の74人の合わせて220人で、このうち187人が九州出身者だった。次いで四国の17人、中国の16人となっており、東北出身者が大半を占めた[[琴似兵村]]や[[山鼻兵村]]と対照的だ。 | 新琴似屯田兵は、明治20(1887)年の146人と翌明治21(1888)年の74人の合わせて220人で、このうち187人が九州出身者だった。次いで四国の17人、中国の16人となっており、東北出身者が大半を占めた[[琴似兵村]]や[[山鼻兵村]]と対照的だ。 | ||
府県別では、佐賀県61人、福岡県55人、熊本県41人、大分県19人、徳島県17人、岡山県15人、鹿児島県11人、島根県1人となっている。 | 府県別では、佐賀県61人、福岡県55人、熊本県41人、大分県19人、徳島県17人、岡山県15人、鹿児島県11人、島根県1人となっている。 | ||
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第1陣の募集が定員に満たなかったために補充された第2陣の74戸は、「[[兵庫丸]]」(1,517トン)から「[[田子ノ浦丸]]」(756トン)と乗り継いで小樽に上陸し、明治21(1888)年5月26日に新琴似に入った。 | 第1陣の募集が定員に満たなかったために補充された第2陣の74戸は、「[[兵庫丸]]」(1,517トン)から「[[田子ノ浦丸]]」(756トン)と乗り継いで小樽に上陸し、明治21(1888)年5月26日に新琴似に入った。 | ||
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=== 日露戦争 === | === 日露戦争 === | ||
明治37(1904)年8月、新琴似屯田兵81人が[[日露戦争]]に出征した。歩兵第25聯隊、第三軍に編入され、12月には二〇三高地での激戦に加わった。翌年3月3日復員した。 | 明治37(1904)年8月、新琴似屯田兵81人が[[日露戦争]]に出征した。歩兵第25聯隊、第三軍に編入され、12月には二〇三高地での激戦に加わった。翌年3月3日復員した。 | ||
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=== 作付=== | === 作付=== | ||
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新琴似兵村の入植当初の農業は、[[養蚕]]と麻の栽培が主眼とされた。明治20(1887)年に給与された種子は、麻(1戸当たり4升5号=約8.1リットル)、大麦と小麦(各1斗=約18リットル)、大豆と小豆(各5升=約9リットル)、馬鈴薯(4斗=約7.2リットル)で、ほか蚕卵用原紙4枚半だった。<br> | 新琴似兵村の入植当初の農業は、[[養蚕]]と麻の栽培が主眼とされた。明治20(1887)年に給与された種子は、麻(1戸当たり4升5号=約8.1リットル)、大麦と小麦(各1斗=約18リットル)、大豆と小豆(各5升=約9リットル)、馬鈴薯(4斗=約7.2リットル)で、ほか蚕卵用原紙4枚半だった。<br> | ||
養蚕は、寒冷地のために生育が悪く、[[新琴似兵村会]]は明治25(1892)年に道庁に申請し、個人での養蚕をやめた。明治23(1890)年に[[札幌製糖会社]]が設立されたのに伴い各戸1反(約10a)のビート栽培をしたが、収量が少ないうえに運搬費がかさみ、間もなく生産を中止した。染料の藍、赤土タバコ、畳用のイグサ、柳行李用のキリュウなども産業として根付かず、副業の機織りや製麺、製紙も同様だった。<br> | 養蚕は、寒冷地のために生育が悪く、[[新琴似兵村会]]は明治25(1892)年に道庁に申請し、個人での養蚕をやめた。明治23(1890)年に[[札幌製糖会社]]が設立されたのに伴い各戸1反(約10a)のビート栽培をしたが、収量が少ないうえに運搬費がかさみ、間もなく生産を中止した。染料の藍、赤土タバコ、畳用のイグサ、柳行李用のキリュウなども産業として根付かず、副業の機織りや製麺、製紙も同様だった。<br> | ||
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=== 潅漑・治水 === | === 潅漑・治水 === | ||
− | + | 安春川掘削事業<br> | |
− | 新琴似兵村の一帯は泥炭層が堆積した湿地が多かったため、屯田兵による開拓は、開墾と併せて排水事業に取り組まなければならなかった。初代中隊長の[[三澤毅]]大尉は、新琴似兵村の選定に携わった時点から排水溝構想を[[屯田兵本部]]に提案しており、明治19(1886)年には現在の新川(全長約13km)を完成させた。第3代中隊長の[[安東貞一郎]]大尉は、三澤の計画を受け継ぎ、最初の入植から3年後の明治23(1890)年7月、排水溝の開削に着手しその年のうちに完成させた。全長5. | + | 新琴似兵村の一帯は泥炭層が堆積した湿地が多かったため、屯田兵による開拓は、開墾と併せて排水事業に取り組まなければならなかった。初代中隊長の[[三澤毅]]大尉は、新琴似兵村の選定に携わった時点から排水溝構想を[[屯田兵本部]]に提案しており、明治19(1886)年には現在の新川(全長約13km)を完成させた。第3代中隊長の[[安東貞一郎]]大尉は、三澤の計画を受け継ぎ、最初の入植から3年後の明治23(1890)年7月、排水溝の開削に着手しその年のうちに完成させた。全長5.5kmの排水溝は、発寒川に注ぎ込み、安東大尉と工事を請け負った春山という人物の姓から「安春川」と名付けられた。<br> |
− | + | しかし、安春川は計画通りの排水効果が上がらず、大正、昭和と改修工事が繰り返された。新琴似地区の都市化が進み農業が衰退すると、札幌市は平成3(1991)年、「ふるさとの川モデル事業」として安春川を住民が憩うウオーターフロントとして整備した。現在は、下水道の処理水が流されている。 | |
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− | == | + | == 公有財産 == |
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新琴似兵村に給与された公有財産地は、発寒川上流官林、月寒村字厚別、上手稲村、下手稲村、発寒村、新琴似村(現・新川地区)などで計324万7,937坪(約1,072ha)に上った。<br> | 新琴似兵村に給与された公有財産地は、発寒川上流官林、月寒村字厚別、上手稲村、下手稲村、発寒村、新琴似村(現・新川地区)などで計324万7,937坪(約1,072ha)に上った。<br> | ||
新琴似兵村では明治32(1899)年、公有財産取扱委員会が発足し、屯田兵の中隊編制が完了した明治42(1989)年には新琴似兵村会が誕生した。「新琴似兵村会記録」によると、この時期に兵村会が公有地を借り受けて小作させるなどして運用し、基金を増大させた。明治44(1911)年に新琴似兵村会を解散し、翌年発足した新琴似屯田親交会が、部有財産の運用に当たった。さらに大正6(1917)年に新たに結成された新琴似兵村部落会が、部有財産を借り入れ、運用益などで部落の公共事業を援助した。<br> | 新琴似兵村では明治32(1899)年、公有財産取扱委員会が発足し、屯田兵の中隊編制が完了した明治42(1989)年には新琴似兵村会が誕生した。「新琴似兵村会記録」によると、この時期に兵村会が公有地を借り受けて小作させるなどして運用し、基金を増大させた。明治44(1911)年に新琴似兵村会を解散し、翌年発足した新琴似屯田親交会が、部有財産の運用に当たった。さらに大正6(1917)年に新たに結成された新琴似兵村部落会が、部有財産を借り入れ、運用益などで部落の公共事業を援助した。<br> | ||
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− | + | == 自治とまちの変遷 == | |
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=== 歴代の中隊長 === | === 歴代の中隊長 === | ||
− | + | *初 代 [[三澤毅]] | |
− | *初 代 [[三澤毅]] | + | *第2代 [[縣左門]] |
− | *第2代 [[縣左門]] | + | *第3代 [[安東貞一郎]] |
− | *第3代 [[安東貞一郎]] | + | |
*第4代 [[吉田勇太郎]] | *第4代 [[吉田勇太郎]] | ||
*第5代 [[久木田直道]] | *第5代 [[久木田直道]] | ||
196行: | 153行: | ||
== 伝統文化・芸能 == | == 伝統文化・芸能 == | ||
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203行: | 159行: | ||
*[[新琴似屯田兵中隊本部]] | *[[新琴似屯田兵中隊本部]] | ||
*[[安春川]] | *[[安春川]] | ||
− | *新琴似神社境内の石碑群:[[新琴似兵村記念碑]] [[開村記念碑]] [[神門碑 | + | *新琴似神社境内の石碑群:[[新琴似兵村記念碑]] [[開村記念碑]] [[神門碑]] [[忠魂碑]] [[開村者碑]] [[百年記念碑]] |
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210行: | 166行: | ||
*『新琴似兵村会記録』 (北海道大学北方資料室所蔵) | *『新琴似兵村会記録』 (北海道大学北方資料室所蔵) | ||
*『新琴似兵村部落会会議録』 (北海道大学北方資料室所蔵) | *『新琴似兵村部落会会議録』 (北海道大学北方資料室所蔵) | ||
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== 子孫会・顕彰団体等 == | == 子孫会・顕彰団体等 == | ||
− | * | + | *新琴似屯田兵中隊本部保存会 |
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