「吉原兵次郎」を編集中

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:『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)
 
:『屯田』第41号(2007年) < 『野幌兵村史』(1934年・昭和9年)
:志願の動機については『屯田兵座談会 開拓血涙史』(1943年・昭和18年)
 
  
 
== 要旨 ==
 
== 要旨 ==
  
#志願の動機について<br>
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#小樽での見聞<br>
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#無蓋貨車で手宮を出た後、乗客全員が防止を風で飛ばされた<br>
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#江別駅頭の出迎えの様子<br>
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#原始林の中の兵屋、熊も徘徊していた<br>
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#婦女子は泣いてばかり、方言が通じなかった<br>
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#大通の教練で行った札幌の様子<br>
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#仙台の大隊と市街戦の演習、市民を驚かせた<br>
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#兵村に武芸達者は多かったが、開墾には難儀した<br>
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#予備役になっても軍務は厳しく、生産はわずかだった<br>
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#牛の飼育の苦労話<br>
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#50年経て立派な兵村部落を形成できた<br>
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#60歳の老人が何十人も要旨を取った話<br>
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#雪と寒さについての苦労話<br>
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== 証言内容 ==
 
== 証言内容 ==
  
# 私は恰度明治十八年、石川縣から募集されて来たのであります。父が警察官でありましたので屯田兵志願のことについては、母も私共も一切知らなかつたので&ります。私は偶々、縣廳から身體検査をするから来いと云ふので参りました。體が非常によかったので、幸ひに合格したのでありますが、検査を何んのためにやるのか、すこしも判りませんでした。そして、後になって北海道に行かねばならぬことを聞いて大騒ぎをしたのです。その為め、親類の者が、集って願ひ下げをするとか、行ってはいけないとか、随分反對をされたものです。あの時分では、北海道と云へぱ、現在に於ける北極探険以上に心配したものでした。却々父の意思に、家族や親類の者が同意しないのであります。その時、後年琴似の村長になられた方ですが、縣大尉が見へて説得してくれましたので、家族のものも、それなら行ってもよからうといふことになりました。父は無論喜びました。當時父は非常な決心でどうしても、北海道を墳墓の地として、再び帰らないと決心してゐたやうでした。然し賓際はその後何度も婦りましたけれども〜そして、本當に南極から北極へでも行く気持で、北海道に渡って来たのであります。<br>
 
 
#私は石川県金澤の旧藩士で、屯田兵に応募して鹿児島、熊本、佐賀、鳥取等各県多数の士族の人々と佐渡丸に乗せられて小樽港に上陸したのは、忘れもせぬ明治十八年六月三十日である。吾等の一行は唯今でも有名であるキト旅館に分宿したが、今は埋立工事の為に色内町は市街の中央であるが、其頃は其處が海岸で銭函村で見る様な風景で余りの珍しさに、友人と海に入って沢山の昆布を採ったが、遣り揚が無く旅館の前に捨て置いて番頭を苦笑せしめた事や、義経や辨慶、常盤、比羅夫などと昔の蝦夷に因んだ人々の名を金文字で大書した小型の機関車で走る汽車と言ふものを、臍の緒切って初めて見たので驚嘆した事や、海岸の露店の爺に奥地に行けば燈火がないと劫かされて五分芯のランプと石油一升を買わされ、道中全く荷厄介で困った事や、種々の事が思ひ出される。其夜魚油の行燈の明かりと鰊油臭味を忍んだのも追懐の種だ。<br>
 
#私は石川県金澤の旧藩士で、屯田兵に応募して鹿児島、熊本、佐賀、鳥取等各県多数の士族の人々と佐渡丸に乗せられて小樽港に上陸したのは、忘れもせぬ明治十八年六月三十日である。吾等の一行は唯今でも有名であるキト旅館に分宿したが、今は埋立工事の為に色内町は市街の中央であるが、其頃は其處が海岸で銭函村で見る様な風景で余りの珍しさに、友人と海に入って沢山の昆布を採ったが、遣り揚が無く旅館の前に捨て置いて番頭を苦笑せしめた事や、義経や辨慶、常盤、比羅夫などと昔の蝦夷に因んだ人々の名を金文字で大書した小型の機関車で走る汽車と言ふものを、臍の緒切って初めて見たので驚嘆した事や、海岸の露店の爺に奥地に行けば燈火がないと劫かされて五分芯のランプと石油一升を買わされ、道中全く荷厄介で困った事や、種々の事が思ひ出される。其夜魚油の行燈の明かりと鰊油臭味を忍んだのも追懐の種だ。<br>
 
#明くれば七月一日手宮駅で乗せられたのが總て運炭用の無蓋貨車であった。大勢の中で帽子を被って居ったのが私と弟の茂男の二人であったが、汽車の疾走中右顧左顧する内に、熊碓辺で吹飛ばされた。それで結局は乗客の全員が無帽となった訳である。今から考えると変だが其頃の風俗が伺われる。又当時を追懐して今の小樽の拡張殷盛に驚かされる。<br> 
 
#明くれば七月一日手宮駅で乗せられたのが總て運炭用の無蓋貨車であった。大勢の中で帽子を被って居ったのが私と弟の茂男の二人であったが、汽車の疾走中右顧左顧する内に、熊碓辺で吹飛ばされた。それで結局は乗客の全員が無帽となった訳である。今から考えると変だが其頃の風俗が伺われる。又当時を追懐して今の小樽の拡張殷盛に驚かされる。<br> 
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#五十年の昔を振り返って見て、現代日本の教育の普及発達は実に驚くべきで、私等が屯田兵に志願した頃は生兵と称せられ、六ケ月間生兵學の訓練を受け始めて二等卒の階級に進み、漸く一人前の兵隊になったものだ。今考えると聊か不思議の感があるが、之れは屯田兵許ではなく、内地の鎮台も同様だったと思う。私が子供の時分に郷里の金澤の市中を無筋無腰の兵隊が、三筋の袖章を付けた上等卒に引卒せられて散歩するのを見たものだ。唯今は将校も下士も始の中は一般兵士と起臥を共にし、教育を受けて順序に進むが、其頃は士官は始めから士官学校に下士官は教導團に入り、卒業の上で入隊するから、兵隊との親みが薄かった。又其頃戸籍の制定が無かったから、北海道に戸籍を移すか又は六十歳以上の戸主の養子になれば兵役を免ぜられる規則で、六十歳の老人が一時に何十人も養子を持ったといふ珍談も聞いた。故に比較的無智な農山漁村の子弟が多く入隊したから、中には左右といふ言語を解せぬといふ嘘の様な事実もある。教育の力の至大なる事と大切なる事が誠に痛感せられる。<br>
 
#五十年の昔を振り返って見て、現代日本の教育の普及発達は実に驚くべきで、私等が屯田兵に志願した頃は生兵と称せられ、六ケ月間生兵學の訓練を受け始めて二等卒の階級に進み、漸く一人前の兵隊になったものだ。今考えると聊か不思議の感があるが、之れは屯田兵許ではなく、内地の鎮台も同様だったと思う。私が子供の時分に郷里の金澤の市中を無筋無腰の兵隊が、三筋の袖章を付けた上等卒に引卒せられて散歩するのを見たものだ。唯今は将校も下士も始の中は一般兵士と起臥を共にし、教育を受けて順序に進むが、其頃は士官は始めから士官学校に下士官は教導團に入り、卒業の上で入隊するから、兵隊との親みが薄かった。又其頃戸籍の制定が無かったから、北海道に戸籍を移すか又は六十歳以上の戸主の養子になれば兵役を免ぜられる規則で、六十歳の老人が一時に何十人も養子を持ったといふ珍談も聞いた。故に比較的無智な農山漁村の子弟が多く入隊したから、中には左右といふ言語を解せぬといふ嘘の様な事実もある。教育の力の至大なる事と大切なる事が誠に痛感せられる。<br>
 
#移住した頃は原始林であった為か、零下何度か知らぬが、寒気が酷烈で降る雪は何時でも灰の様にサラサラであった。其頃屯田兵の冬の軍服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は体を曲げると背が見える短いものであった。夫れに紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許された。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸もない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けたが、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与を見ると全く隔世の感を深くする。君恩の辱けなさと國運の発展に歓喜の涙が自然に涌く。<br>
 
#移住した頃は原始林であった為か、零下何度か知らぬが、寒気が酷烈で降る雪は何時でも灰の様にサラサラであった。其頃屯田兵の冬の軍服はモンパの下着が一枚と小倉服で、而も上衣は体を曲げると背が見える短いものであった。夫れに紺足袋脚絆草鞋履きで、極寒の時は外套が許された。さうして終日雪中の練兵である。休憩の時は足踏みして凍傷を防止した。勿論手袋も耳懸もない。軍人として困苦欠乏に堪へる訓練を受けたが、今時考えると寧ろ不思議な位である。併し十年後には羅紗服に改正された。現代兵隊の諸給与を見ると全く隔世の感を深くする。君恩の辱けなさと國運の発展に歓喜の涙が自然に涌く。<br>
 
[[Category:証言|よしはらへいじろう]]
 

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