「兵屋」を編集中
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=== 洋式小屋組の採用 === | === 洋式小屋組の採用 === | ||
− | + | 明治7年に建造された琴似兵屋の小屋組(屋根を支えるための骨組み)は、日本の伝統的な小屋組と異なる、トラス構造と呼ばれる洋式小屋組が採用されている。軽量な部材でも強度に優れ、柱のない大空間を確保できることから、日本でも明治以降急速に普及した方式で、その先駆けが世界文化遺産の富岡製糸場(明治5年完成)で、ほぼ同じ時期に住宅に採用された貴重な文化遺産といえる。<br> | |
小屋組を子細に見ると、水平に渡された太い梁の中央から一本の柱(真束・英名キングポスト)が垂直に立ち上がり、両脇の斜めに延びた二本の柱とともに、しっかりと屋根を支えている。製糸場とは接合部分に微妙な違いがあり、「継ぎ」「組み」などの仕口に「洋魂和才」の跡が感じられる。琴似兵屋の設計段階では、カッヘル(ストーブ)や屋内白土壁の採用など洋風建築を目指したものの、資金上の制約から断念していった経緯があり、トラス構造は、唯一残った洋風指向の残骸ともいえる。<br> | 小屋組を子細に見ると、水平に渡された太い梁の中央から一本の柱(真束・英名キングポスト)が垂直に立ち上がり、両脇の斜めに延びた二本の柱とともに、しっかりと屋根を支えている。製糸場とは接合部分に微妙な違いがあり、「継ぎ」「組み」などの仕口に「洋魂和才」の跡が感じられる。琴似兵屋の設計段階では、カッヘル(ストーブ)や屋内白土壁の採用など洋風建築を目指したものの、資金上の制約から断念していった経緯があり、トラス構造は、唯一残った洋風指向の残骸ともいえる。<br> | ||
兵屋建設費はその後も切り詰め傾向が続き、技術力に劣る囚人労働を頼ったこともあり、洋式小屋組は琴似、山鼻兵村だけだった。「五寸角材」だった真束は、後期兵村では「三寸五分の皮剥ぎ丸太」に置き換えられた。現在も復元保存されている秩父別兵村の兵屋を見ると、曲がりくねった梁の上で、いかにも頼りなげな三本の束柱が、屋根を支えている。<br> | 兵屋建設費はその後も切り詰め傾向が続き、技術力に劣る囚人労働を頼ったこともあり、洋式小屋組は琴似、山鼻兵村だけだった。「五寸角材」だった真束は、後期兵村では「三寸五分の皮剥ぎ丸太」に置き換えられた。現在も復元保存されている秩父別兵村の兵屋を見ると、曲がりくねった梁の上で、いかにも頼りなげな三本の束柱が、屋根を支えている。<br> |